神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 稀覯書・貴重書 】

播磨国揖西郡栄村庄屋文書解題

【地域】

栄村(現在の行政区画は兵庫県たつの市揖保町栄)…門前村の南西に位置し、播磨国揖西郡に位置する。江戸時代の領主の変遷は、慶長5年(1600)池田輝政(姫路藩)領、元和3年(1617)龍野藩領(本多氏→小笠原氏)、寛永9年(1632)幕府領、同10年龍野藩領(岡部氏)、同13年幕府領、同14年龍野藩領(京極氏)、明暦4年(1658)幕府領、寛文12年(1672)龍野藩領(脇坂氏)となり幕末に至る。

寛永13年の龍野領村々高辻帳では池田輝政による内検地高699石余、高577石余。正保郷帳では田方538石余・畑方39石余。元禄郷帳では高483石余。宝暦年間の龍野藩領分明細帳では高453石余、反別は田方27町2反余・畑方4町1反余、家数75。天保郷帳では高486石余。(平凡社『日本歴史地名大系』参照)

【文書群】

栄村庄屋文書は、総202点。土地関係の文書が多いが、水論関係が49点と多く、浦上庄9ヶ村の氏宮であった崇道神社関係の文書も多く残っているのが特徴である。文書の年代は、明治の初期のものが多いが、水論関係・崇道神社関係の文書は江戸時代初期のものから残っており、さらに伝来は不明ながら大永8年(1528)の大神宮政所下文も残されている。全文を紹介する。

 補任
 大神宮政所下 
    播州室津右一職事
 右、任先例、令補任者也、専
神役可致祈念、仍為後
證下知如件
   大永八年卯年十三日
    領家(花押)

これは栄村庄屋文書のなかで唯一の中世文書ではあるが、関連する文書がないので、詳しいことはわからないが、大神宮(=伊勢神宮)の政所が「播州室津右一職」に対して補任したので、神役を納め、祈念すべきことを命じた文書である。しかし、当時室津がどこの支配を受けていたのかということや、「室津右一職」については不明である。

この文書群で特徴的な点は水論関係の文書である。この地域は全長70キロ、流域面積810平方キロの大河川・揖保川の流域地域であり、揖保川やその揖保川に太子町付近で合流する林田川から多くの井堰が作られていた。栄村庄屋文書の水論に関連する重要な文書として、「岩見井組文書」(『兵庫県史 史料編』所収)が挙げられる。「岩見井組文書」所収の文禄4年(1595)5月吉日付の「揖保川井堰絵図」には、揖保川(大川)・林田川(安志川)から多くの井堰が設置され、用水が張り巡らされている様子がよくわかる。栄村庄屋文書で登場する浦上井堰・半田井堰・岩見井堰も描かれており、これらの井堰は中世以降に遡る用水形態に由来することが窺える。栄村は浦上井組に属しており、浦上井組は浦上井頭を中心として四ヶ町、四ヶ町彦大夫捌、四ヶ村、吉田村、門前村、真砂村、萩原村、東用村、栄村、西構村、西構村出屋敷、西構村九右衛門捌、中陣村、中陣村藤右衛門捌、中陣村伊兵衛捌、中陣村作右衛門捌、中陣村新兵衛捌、大道村、山下村、長真村、上沖村、下沖村、片吹村によって構成されていた。


【文書紹介】

栄村庄屋文書の水論関係文書は、享保17年(1732)、安永9年(1780)、寛政6年(1794)、文政6年(1823)、天保14年(1843)、嘉永2年(1849)、嘉永6年(1853)、明治9年(1876)のものが残っており、渇水に対しどのように対応しようとしていたのか、その作法がわかる文書として重要ではないかと思われる。

ここでは安永9年の水論(文書番号21-4648-1)について紹介する。

130ヶ年以前(1650年ころか)に川筋にて高水が起こり、堰場が大破し、100間(約180メートル)ほど川上にて堰を立てた。しかし、20年ほど前からその堰が破損してしまい、旱損に悩まされるようになった。そこで浦上井組の村々で話し合い、領主に許可を取り、堰を20間下げたが、そこでも水の通りが悪く、再び堰場を下げようとしたが、半田・山鼻井組が堰の建設の中止を求め領主に働きかけ、堰建設が一旦中止された。それに対して浦上井組は、半田・山鼻井は浦上井堰より20丁も川下であり、差しさわりがないこと、また、堰自体も土俵ではなく石堰(俵に石をつめたもの)であるので、洩れ水があり、半田・山鼻井組の用水量は減らないことを主張している。これは7月28日に領主から内済のための対談当事者間での和談が仰せ付けられ、浦上井組と半田・山鼻井組の間で対談がなされることになる。しかし、半田・山鼻井堰は浦上井組と同じ領主である龍野藩主脇坂淡路守領の野田村、新在家村、養久村、二塚村、片島村、北山村、正条村と、讃岐丸亀藩京極能登守領である黍田村、山津屋村によって成り立っており、黍田・山津屋村が対談を渋る間に、黍田・山津屋村を除いた半田・山鼻井組の7ヶ村と浦上井組の間で和融が成立した。しかし、半田・山鼻井堰の水下にある黍田・山津屋村はそれに反対し、黍田・山津屋村は浦上井組と半田・山鼻井組7ヶ村に対し、在来通りの規式に戻すように訴訟を起こすことになる。
この水論からだけでも、堰には土俵によるものと石堰によるものがあり、用途によって使い分けられていたこと、情報の伝達も、黍田・山津屋村には、他領主ということもあり、ほかの半田・山鼻井組の村々とは違い、龍野御役所から地頭役所を経て両村に伝えられているとともに、同井組である故に半田・山鼻井組の7ヶ村庄屋からも同内容の通達がなされていることなどがわかる。特に後者は、同じ領主を持つ団体同士の対立という性格の争いに対して、さらに他の領主を持つ団体もそれに含まれていることにより問題が複雑化していったものとして捉えうるが、こうした問題が起きない限り他の領主の団体が入り込んでも正常に、かつ円滑に機能しうる姿は、井堰の運営と活用に関して井組内での団結の様子が垣間見えるのではないだろうか。
そのほか、浦上井堰や用水に関する文書が残されており、渇水に際してどのような対応を行ったのか、また、どのように渇水から逃れたのかがよくわかる史料である。

(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)