神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 稀覯書・貴重書 】

摂津国兎原郡篠原村若林嘉茂治家文書解題

【文書群】

若林嘉茂治家文書は摂津国兎原郡篠原村(現神戸市灘区)の若林家に関する古文書である。全604点で、書状や覚が大部分を占めている。年代が判明するものは72点に限られているが、慶長元年(1596)から明治13年(1880)までの文書があり、近世初期の史料も比較的多く残されている。
若林家の古文書は、これまで①天城文書、②若林泰家文書、③神戸大学附属図書館所蔵「古文書」が知られていた。ここに④神戸大学附属図書館所蔵の若林嘉茂治家文書も新たに加えることができるだろう。これらは元々一つの文書群であり、近代以降に分割されたと考えられる。
なお、③「古文書」と④若林嘉茂治家文書はともに神戸大学附属図書館に所蔵されているが、別々に管理されている。若林嘉茂治家文書が神戸大学附属図書館に収蔵された経緯や時期などは不明である。
なお、東京大学史料編纂所にも「若林文書」の影写本が収蔵されており、現蔵者若林嘉茂治とされている(請求記号 3071.64-68)。この「若林文書」は文書1点であり、「某書状(折紙)」として『兵庫県史 史料編 中世1』(兵庫県、1983年)に掲載されている。『兵庫県史』の解説によると、「若林家は、現在、宮崎県に居住されているが、この文書の所在は不明で、ここでは明治二十一年六月採訪、同二十三年三月に作成された「影写本」によって収録した」とある。1983年の段階において、若林家が宮崎県に居住していたこと、「若林文書」の所在が不明となっていたことが判明する。ただし、『兵庫県史』の「若林文書」某書状は、③「古文書」・④若林嘉茂治家文書には残されておらず、調査が必要となるだろう。

【資料紹介】


■若林家について

若林家は篠原村の庄屋などを務めた家であるが、もとは武士であり、若林氏が筑後国久留米藩の藩主有馬忠頼(瓊林院。慶長8年(1603)~承応4年(1655年))への奉公を行っていたことがわかる(№515)。
若林嘉茂治家文書には、1624~83年にかけて若林佐左衛門正家(のち無庵)という人物が確認でき、1740年以降は若林嘉茂治という人物がみられる。若林正家と若林嘉茂治の関係は明らかではないが、正家に関する史料が嘉茂治家の史料のなかに残されていたことをみると、嘉茂治が正家の子孫にあたると考えられる。
また、神戸大学附属図書館所蔵の「古文書」には、断片的ながら若林家の系譜が窺える史料がある(「古文書」№284-1284-2284-4284-6284-12。以下、「古文書」の史料は「古文書」№と表記する。№のみの史料は若林嘉茂治家文書を指す)。その史料からは、次のことが読み取れる。
①文明年間(1469~87)頃、若林満秋という人物がおり、その後、満寛(慶長19(1614)生・元禄12(1699)没)、正家と続いている。正家の娘におくにがいる。
②若林佐左衛門正家(のち無庵)が慶隆寺(現在の慶光寺)を再興し、そこに満寛以下の古墳(墓)を設けた。また、祥龍寺にも若林家の墳墓があった。
③その後、伝女という女性と婚姻を結んだ有馬郡西野上村今西儀兵衛の舎弟が若林家を相続し、嘉茂治と称する(なお、伝女は安政5年(1858)6月に78才で死去している。それを逆算すれば、天明元年(1781)生まれとなる)。
④嘉茂治と伝女の間に生まれた子どものうち、長男は魚崎村松尾勘左衛門の養子となり、三男の又一郎は本家を相続し、のち嘉茂治を名乗った。又一郎の妻は魚崎村松尾龍助の女であった。
以上から、近世後期に若林嘉茂治を名乗る家が成立しており、家督継承者が嘉茂治の名前も継承していたことがわかる。また、若林嘉茂治家文書には、魚崎村の松尾家や有馬郡西野上村の今西家との書状が多く残されているが、それは若林家と婚姻関係や養子関係にあったためと考えられる。

■篠原村について

若林嘉茂治は篠原村の庄屋を務めていたため、若林嘉茂治家文書には篠原村の運営や村同士の相論に関する史料が残されている。
正徳2(1712)頃の史料である№142416によると、篠原村は幕府領・古河藩領あわせて高307.551石、家数72軒、人数301人、牛38疋であったことがわかる。また、№274によると、石が御用達とされていたこと、中一里山の年貢を唐戸村(唐櫃村)へ出していたこと、牛口銭を天王寺村牛門屋孫右衛門へ出していたこと、稲作出穂の時に雀を追い払うため鉄砲を打っていたこと、兵庫津からの津出しをしていたこと、旅人や勧化僧の往来が多かったことが読み取れる。
そのほか、川沿いに水車が設置されており、主に油稼ぎが行われていたこと(№11)、嘉茂治が水車惣代であったこと(№746)、酒造が行われていたこと(№62147347など)、入会山の使用について近隣村との相論が生じていたこと(№38)、蒸気船の雇い入れを願い上げていたこと(№66152153225など)も確認できる。

■若林家と慶隆寺・祥龍寺

慶隆寺(現在、慶光寺)・祥龍寺は、ともに若林氏の墓所となっている(「古文書」№284-2284-4)。
祥龍寺には多くの諸堂があったが、元禄年間(1688~1704)の焼失によって本堂・釣鐘堂のみとなったとされる(№402)。

■むすびにかえて

若林嘉茂治家文書は書状や覚が大部分を占めており、史料同士の関係が明確にわかるものは少ない。そのため、若林嘉茂治家文書同士の関連性を丁寧に追っていくことや、天城文書、若林泰家文書、神戸大学附属図書館所蔵「古文書」の若林家関係文書とあわせて分析することが必要となる。本目録の公開がその一助となれば幸いである。

■参考文献

神戸大学文学部地域連携センター編『篠原の昔と今―古文書と古写真―』(神戸大学文学部地域連携センター、2006年)
木村修二「神戸大学附属図書館所蔵近世初期篠原村・若林家関係文書」(『Link』3、2011年)
山本康司「神戸大学附属図書館所蔵「古文書」の来歴と太田陸郎」(『Link』6、2014年)

(神戸大学大学院人文学研究科 山本康司)