一 天正八年九月十七日 織田信長朱印状

 織田信長が天正八(一五八〇)年九月一七日付で、中川清秀に中国において二ヶ国を宛行った朱印状。筆跡上の特徴から、天正元年から一〇年にかけて信長の右筆を勤めた楠長諳の筆によるものと考えられる(安土城考古博物館平成一二年度特別展『信長文書の世界』図録参照)。天正八年九月といえば、信長が同年閏三月に本願寺顕如と勅命により講和を結んだあと、それに従わず籠城抗戦を続けた顕如息教如も八月に本願寺を退去し、本願寺勢力の完全制圧をとげた時期にあたる。信長が天下統一にむけてのつづく目標を中国毛利氏に置き、翌年攻撃を開始するプランを持っていたことは、八月一二日付で島津・大友両氏にあてた「九州停戦令」の中に「来年芸州において出馬すべく候、その刻別して御入魂…」、また同日付近衛前久宛書状にも「来年は出馬、毛利追伐せしむべく候」とあることからも明らかである。
 一方、清秀は本状に先立つ八月、これまで与力として付属していた佐久間信盛が信長の叱責を受けて追放されたことにより、同じ摂津衆の池田恒興、高山重友(右近)などとともに明智光秀に付けられることになった。そして彼らとともに翌九年八月に鳥取城包囲戦中の秀吉軍支援のため信長から出陣準備を命ぜられ、また十年五月にも備中高松城攻め最中の秀吉支援の先鋒隊としての出陣の命令を受けている(ともに『信長公記』)から、この双方の場面で同様に命令をうけた長岡藤孝・忠興親子などとあわせ、清秀は光秀のもとで中国攻めの中心的戦力と見なされていたことが読みとれる。以上から、本状は、信長が来る中国攻めでの動員を見越し、征服後の恩賞を提示して、清秀に軍忠を励ましたものではないかと考えられる。
 なお、こののち清秀が中国を所領を有した事実は確認できないが、天正九年一二月三日付書状で秀吉が清秀に対し「西国の内に於いて両国を仰せ付けられ、御朱印御頂戴」の件につき、「宇喜泉(宇喜多直家)上様に如在申され、彼国を仰せ付けられざるに於いては、御朱印の旨に任せて、馳走」を申し出ており(『昭和十年三月旧大名并某家蔵品入札目録』、『増訂織田信長文書の研究 下』収録)、本状の発給が原因となって、当時美作で信長方として毛利氏と死闘を繰り返していた備前宇喜多氏と紛争が持ち上がった可能性がある。
 本状は端の部分が二・二センチ程切り取られているが、その理由は不明である。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)