一〇三 (慶長十一年)五月六日 徳川家康黒印状

 天正一八(一五九〇)年、徳川家康は秀吉の転封命令をうけ、関東六ヶ国の主として江戸城へ入城した。この後家康は、江戸城の修築と城下町の建設に着手することになるが、彼じしん豊臣政権の要人として江戸を留守にすることが多く、また大坂城や伏見城などの普請への動員を受けたこともあって、その進行状況ははかばかしくなかった。それが本格化するのは、慶長八(一六〇三)年二月の将軍就任以後のことであり、早速翌三月、江戸市街地の拡張工事にとりかかっているが、これは徳川幕府による、諸大名の大規模土木工事への動員、いわゆる「手伝普請」の嚆矢となるものであった。なお、この時、中川秀成も紀伊和歌山城主浅野幸長組の一員として工事に参加していることが知られる(「御手伝覚書」『大日本史料』第一二編之一、所収)。
 そして幕府は慶長九年八月、江戸城普請計画を発表、諸大名に石材と材木の調達を命じた。そして翌一〇年は石材運搬船の建造と江戸回送のなどの準備期間にあてた上で、一一年一月に伊豆から江戸への石材輸送を開始、これらをふまえて同年三月一日から江戸城の大修築工事が開始された。このとき動員を受けた(普請役を賦課された)のは、西国の外様大名を中心に、確認されるだけで三〇家以上に及び(「御手伝覚書」(『大日本史料』第一二編之三、所収)では二二家が記されているが、ここには中川秀成の名は見えない)、一万石あたりの基準坪数をもとに、各大名の持高に応じて城の外郭や本丸に担当地区(丁場)がわりあてられ、採石・石材の搬送から石垣の構築に至るまでの責任を負った。本状は、四月末に石垣普請が完成したことを受けて、慶長一一年五月六日付で徳川家康が中川秀成に与えた、普請への尽力を褒賞する黒印状である。
 本状の前日五月五日付で出された、同じく普請褒賞の内容をもつ黒印状(一〇二号文書)が将軍(秀忠)の「満足」を受ける形で出されていたのに対し、本状は直接家康の「感悦」を伝えるのに加え、恩賞として帷子・羽折(織)・袷を与えることを述べている。本状については、日付と文言をほぼ同じくする黒印状が、脇坂安元(淡路洲本城主)・中村忠一(伯耆米子城主)宛のもの(「脇坂家譜」及び「譜牒余録」、ともに『大日本史料』第一二編之四、所収)が五日付の黒印状とともに、また、毛利秀就(長門萩城主)家臣で実際に工事を指揮した毛利秀元・吉川広家・福原広俊の三名宛(「譜牒余録」「別本吉川家譜」「萩藩閥閲録」、すべて前同書所収)、および高橋元種(日向県城主)宛のもの(『徳川家康文書の研究』)が単独で残っていることが確認できるから、本状と同一の褒賞状が、駿府の家康から普請に参加した各大名やその有力家臣に発せられたと考えてよかろう。このことは、この事業が将軍秀忠のためのものではあるが(一〇二号文書参照)、その主体はあくまで大御所家康であることを示していると考えられる。
 なお、この後、五月末には堀を掘る作業も完了して六月一〇日頃には普請が完成し、引き続き幕府直轄で行われたと考えられる作事(建築工事)も、天守を除く本丸の殿舎が九月上旬にはほぼ完成、同月二三日には将軍秀忠が本丸に入り、一旦工事は終了する。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)