一一 (天正十三年)二月十三日 羽柴秀吉朱印状

 天正一三(一五八五)年二月一三日、秀吉が来る三月二一日の紀州攻め出陣に備え、中川秀政に軍勢を揃えて大坂近辺に着陣するよう申し送った朱印状。そのため、「今度の普請」は延期するとも述べている。本文書と同一の日付でほぼ同じ内容の朱印状が山城槇島城主一柳直末にも出されているが(『一柳家文書』)、そこでも「今度の普請打ち続き造作たるべく候の条、相延べ候」とある。ここでいう「普請」とは、天正一一年八月末に始まった大坂城の建設工事をさしており、延期された工事が再開されるのは翌年にはいってからのことになる。
 前年の小牧・長久手の戦いで家康に苦汁を飲まされた秀吉は、その折り家康と結んで自己に苦境をもたらす一因となった畿内周辺の反秀吉勢力を制圧する必要を痛感し、本拠大坂城の工事を中断しても紀州の雑賀一揆・根来寺、四国の長宗我部元親、越中の佐々成政の攻略に次々と着手することになったかと思われる。中でも紀州勢は小牧の戦いの最中、岸和田城を攻撃、さらには秀吉不在の大坂にまで侵攻し、秀吉の心胆を寒からしめていた。
 なお、秀吉は本状の通り三月二一日に数万の大軍を率いて大坂城を出発、小西行長らの水軍・先発隊を併せて一〇万といわれる軍勢で紀州攻めに着手し、四月末までには雑賀一揆・根来寺勢力に加えて高野山も屈服させ、紀州制圧を遂げる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)