一三 (天正十三年)五月廿日 羽柴秀吉朱印状

 紀州の根来寺と雑賀衆の制圧を終えて大坂に戻った直後の天正一三年(一五八五)五月四日、秀吉は四国・長宗我部氏攻めの出陣の日を六月三日と定め、麾下の諸将に出陣の準備をするよう発令した。長宗我部氏は、四国のうち土佐・阿波・讃岐をほぼ制圧する巨大勢力となっていたのみならず、賤ヶ岳の合戦では柴田勝家と、小牧・長久手の戦いの際には家康・織田信雄と結び、反秀吉の姿勢を明確にしていた。
 ただし、その最初の出陣命令にあたるものは現在『中川家文書』の中には見当たらない。本状はその後、出陣が秀吉の病気などによって六月一六日に延期されたことを中川秀政に伝えた朱印状で、その旨を述べたのち、最前申し出たように、として、播磨明石(現、兵庫県明石市)から先陣として渡海するように申し送っている。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)