一五 (天正十三年)六月十七日 羽柴秀吉朱印状

 天正一三(一五八五)年六月一六日、秀吉は、弟秀長を総大将として、阿波土佐泊(現、徳島県鳴門市)、讃岐屋島(現、香川県高松市)、伊予今治(現、愛媛県今治市)の三方から、一一万余の大軍をもって四国長宗我部氏攻めを開始する。長宗我部氏は、四国のうち土佐・阿波・讃岐をほぼ制圧する巨大勢力となっていたのみならず、賤ヶ岳の合戦では柴田勝家と、小牧・長久手の戦いの際には家康・織田信雄と結び、反秀吉の姿勢を明確にしていた。
 本状は、その翌日、六月一七日に秀吉から摂津茨木城主中川秀政および同高槻城主高山重友(右近)にあてられた朱印状。秀吉は諸将の軍勢が渡海したかを尋ね、再三申し聞かせているように物惜しみせず、一手に野陣し、所々を見計らって落ち度なきよう申しつけよ、としている。さらにそちらからの連絡次第で即日出馬するので、その旨を了解した上で、行軍路の道や橋、泊、要害などを権兵衛(仙石秀久)と相談して見分し、普請を申しつけよと命じ、加えて道中や渡口(泊)、城(要害)のどこに誰を配置したかを含め、現地の様子を詳しく報告するよう求めている。
 秀政は、出陣以前の一三号文書に「明石に至り、それ以前打ち越し、渡海あるべ」し、一四号文書に「四国に至り、先勢として出陣あるべ」しとあり、かつ二二日付けの一六号文書で「その表鳴渡(門)を渡海せしめ…」とあることからもわかるように、摂津・丹波等の諸大名を率いて、播磨明石(現、兵庫県明石市)ー淡路岩屋ー同福良ー土佐泊ルートで四国へ侵攻した羽柴秀次軍の先発隊であった(紀伊より淡路洲本へ着陣した総大将秀長軍と福良で合流。なお、一七号文書参照)。彼らが協力するよう指示された仙石秀久は、淡路洲本城主である。秀吉は、本状で、彼ら先発隊に対し、現況を確認するとともに、以後の軍事行動の展開についての指示を与えたのである。
 冒頭の「物惜しみせず…」は、おそらく追而書の”秀吉の定めた法度に背けばたとえ長宗我部(元親)を捕らえても成敗する”、という文言に対応し、秩序ある陣取りや兵士の濫妨狼藉の防止といった軍律にかかわるものと思われる。また、後段では、先発隊に行軍路の整備や防御施設の設置を命ずるとともに、諸将の配置状況についての詳細な報告を義務づけていることに、秀吉の軍事行動に際しての計画性や周到さが読みとれる。総じて、秀吉の軍隊や作戦展開に対する考え方がよく読みとれる文書であるといえよう。
 この五日後出された一六号文書で秀吉は、二五日・二八日・(七月)一日に追々人数を遣わす、と伝えている。かくして秀吉軍は、着々と四国を制圧していく。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)