一六 (天正十三年)六月廿二日 羽柴秀吉朱印状

 秀吉による四国・長宗我部氏攻めが開始されて間もない天正一三年(一五八五)六月二二日、播磨三木城主前野長康、明石元知、摂津茨木城主中川秀政および同高槻城主高山重友(右近)にあてられた朱印状。摂津周辺に所領を持つ小大名・領主である彼らは、秀吉軍のうち、播磨明石(現、兵庫県明石市)ー淡路岩屋(現、同県津名郡淡路町)ルートで侵攻を開始した(淡路福良(現、同県三原郡南淡町)で堺(現、大阪府堺市)から淡路洲本(現、兵庫県洲本市)に航した総大将秀長軍と合流)羽柴秀次軍の先陣であった。その内容から、四国上陸を目前に控えた状況で出されたものと思われる。
 秀吉はまず、鳴門海峡を渡海後、四国の侵攻状況を毎日報告せよと命じている。その上で、来る七月三日に自ら出馬すること、六月二五日・二八日・七月一日と追って軍勢を派遣することを知らせ、その渡海に備えて、彼らが明石から渡海した際貸与した船をすべて明石の船奉行のもとに戻すよう指示している。秀吉は、四国攻めの最初の発令の際にも船とそれを率いる人員については総大将秀長から通知すると告げ(大阪城天守閣蔵「玉置文書」など)、また本状発給後の四国上陸、すなわち難所として著名な鳴門海峡の渡海に当たっても、船奉行を定めて、大船六百艘・小船三百艘で諸勢一度に渡海させたというから(『四国御発向并北国御動座事』)、作戦にあたって主要な渡航拠点に直属の船奉行を置くとともに、自ら輸送船やその乗組員の確保と運用を指示・統制していたことがわかる。秀吉の兵站管理のありさまが確認できる史料。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)