一六八 (年未詳) 徳川秀忠黒印状

 九月八日付で将軍秀忠が、中川久盛から重陽(九月九日の節句)の音物として献上された小袖に対する礼を述べた御内書。「御内書」とは、室町幕府に始まる文書様式で、もともとは足利将軍の出した書状形式の文書のうち、とくに内容が公的なものを指した。この様式は、のち天下人豊臣秀吉、さらには徳川幕府に継承されたが、特に三代将軍家光の頃から形式化が進み、端午・重陽・歳暮の三季に諸大名等から受けた献上品に対する将軍からの答礼用文書として限定化・固定化していく。
 御内書末尾に「誰可申候也」などとその名が記される人物は、将軍に献上物を披露した上でその意を奉じて御内書を発給し、初期には同時により詳しい内容を記した添状を出す、といった役割を果たした。これは、近世中期以降には月番老中に一本化されるが、幕府機構がまだ未整備であった秀忠の治世までは、職制と必ずしも一致せず、年寄クラスの幕閣の中心人物たちが、将軍と諸大名のパイプ役=「取次」として、受け持ちを分担してその任にあたったらしく、同時期に複数の者の名が秀忠御内書の文末に確認できる。
 本状でその名の見える酒井雅楽頭忠世(元亀三(一五七二)〜寛永一三(一六三六))は、家康の臣重忠の嫡男で、はじめ家康に仕え、徳川氏が関東に初入部した天正一八(一五九〇)年から秀忠に付属、慶長一〇(一六〇五)年の秀忠将軍就任によってその年寄となり、以後大坂の陣で秀忠の旗本として活躍するなど、秀忠の側近中の側近として知られ、同じく土井利勝とともに秀忠の元和政治に国政を預かった。なお、忠世は元和九(一六二三)年四月に家光付年寄となって家光発給の御内書の奉者となり、さらに同年七月家光が将軍に就任し、大御所秀忠が西の丸に居を移すに伴い、その御内書の奉者は西の丸筆頭年寄となった土井利勝が担当するに至ったとされるから、本状はこの元和九年七月から秀忠の死去する寛永九年の間に出されたものと考えられる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)