一九 (天正十三年)七月三日 羽柴秀吉朱印状

 天正一三年(一五八五)七月三日付で四国・長宗我部氏攻めの陣中にあった中川秀政・古田重然にあてて出された秀吉の朱印状。一六号文書に見えるように、この日は秀吉が自ら出馬することを予定していたまさにその日に当たっており、冒頭で秀吉は、四国攻めの総大将であった弟秀長の要請によって今朝一〇日まで日延べを決めた、と告げる一方、木津城を攻略次第、巡察のため出馬するとも述べている。
 木津城は現徳島県鳴門市撫養町木津にあった山城で、当時は長宗我部氏の武将であった東条関之兵衛が守備していたとされる。秀吉軍は、四国攻めの端緒として、淡路福良(現兵庫県三原郡南淡町)から阿波土佐泊(現徳島県鳴門市鳴門町)に上陸した総大将秀長の率いる主力軍に、讃岐屋島(現香川県高松市)に上陸した宇喜多秀家・黒田孝高・蜂須賀正勝親子軍が合流した大軍をもって本城を取り囲んだのである。秀吉が「手負などないように木津城を責め殺せ」と余裕を見せているのも、このためかもしれない。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)