二 (天正十年)四月廿三日 羽柴秀吉書状

 天正一〇(一五八二)年四月、信長軍の先鋒として中国毛利氏攻めの陣中にあった羽柴秀吉が、中川長鶴丸(のちの秀政)にあてた書状。まず見舞いと音信に対する礼を述べた上で、第一条では東国が「平均に仰せつけられた」ことへの満足と、清秀が「御供」をしたことへのねぎらいを記す。この”東国平均”とは、信長軍の関東遠征による甲斐武田氏の攻略を指す(武田勝頼の自害は三月一一日)。この時信長自身信濃まで出陣して同国上諏訪で論功行賞を行なうなどしたが、清秀も同伴して出兵するよう命令を受けていることが確認できる(『信長公記』)。おそらく、清秀のもとから居城茨木城の留守を預かる長鶴丸に攻略戦の成功とその後の処置を伝える書状が届き、その旨を織り込んだ陣中見舞いが秀吉に送られたのだろう。
 続く二ヶ条は、毛利氏攻めの現況報告である。第二条では備中国に攻め込んで陣取し、書状の当日二三日には二城を包囲、前年の、世に「渇殺し」として著名な鳥取城攻めの時の如く堅固に堀・塀・柵を申しつけたと記す。この二城とは、別の史料から、毛利方が前線にあたる備前・備中国境を流れる足守川にそって守りを固めた七城のうちの宮地山城(現、岡山市足守)と冠山城(現、岡山市下足守)であることが確認できる。さらに秀吉は第三条で、毛利方の大将小早川隆景は陣地より一里ほど離れた幸山城(現、都窪郡山手村)にあってこちらを後巻(逆包囲)にしているので、一戦に及び打ち果たそうと待ち受けているが、その様子がないため、 まずは宮地山・冠山両城の包囲網を狭めて水の手をとめ、一人も洩らさず責め殺すつもりである、と述べている。実際、この後秀吉は五月三日までに両城に加えて加茂城(現、岡山市加茂)・日幡城(現、倉敷市日畑)を攻略し、そしていよいよ七城の本城にあたる備中高松城(現、岡山市高松)に対する”水攻め”にとりかかることになる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)