二〇 (天正十三年)七月八日 羽柴秀吉朱印状

 一九号文書から五日後の天正一三年(一五八五)七月八日付で、阿波木津城(現、徳島県鳴門市撫養町木津)攻めの陣中にあった中川秀政・古田重然にあてた秀吉の朱印状。
 秀吉はまず第一条で、自身の出馬を延期したことを改めて述べつつ、いつでもそちらからの一報次第出馬する、また木津城が落城して(阿波)国中の諸城が開城し、敵将長宗我部元親の居城を包囲するに至ったら、五日の逗留で自ら出馬する、と出馬に向けた強い意向を示している。なお、当時元親の本営は阿波白地城(現、徳島県三好郡池田町白地)にあった。
 さらに第二条では、大軍で一城を包囲するのはどうか、として、諸将協議の上で一部の軍勢を一宮城(現、徳島市一宮町城山)攻めへ差し向けるよう指示を送り、さらに第三条では木津城・一宮城の受け取りにあたる者について別紙の書付を送るとしている。秀吉がこの二城の早期陥落を見越すとともに、陥落後は別途派遣した武将を入れて元親の本城への侵攻のための後方支援の拠点とすることを考えていたらしいことがわかる。当時和泉貝塚(現、大阪府貝塚市)にいた本願寺門主顕如の家臣・宇野主水はその日記に「長曽我部自身阿州一ノ宮ト云所まて木津城ヲサヘノタメニ出タレトモ、何ノ不及行、土州打帰由也」と記しており、この事実は確認出来ないが、周囲の人々からも木津城・一宮城が秀吉と元親の攻防にあたっての重要なポイントと見なされていたことは間違いない。
 なお、秀吉は末尾にそちらの事情聴取のため、森兵吉(吉成)を派遣する、としているが、吉成は四国平定後、阿波に所領を与えられ、阿波ではこれを「兵橘領」と呼んだという。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)