二一 (天正十三年)七月十日 羽柴秀吉朱印状

 秀吉軍の四国侵攻が進む天正一三(一五八五)年七月一〇日付けで、中川秀政と古田左介(重然)に宛てられた朱印状。古田重然とは、のちに茶人としてばかりでなく、安土桃山時代を代表する文化人としても知られる古田織部その人である。重然はもと信長に仕え、天正六年一一月、荒木村重の反乱に従った秀政の父・清秀を信長へ寝返らせた「調略の御使」の一人に「古田左介」がみえる(『信長公記』)。これを契機に重然は清秀の与力とされ、おそらく賤ヶ岳の合戦での清秀の戦死後も、若い秀政の後見役として補佐していたと思われる。
 淡路福良から阿波土佐泊に上陸した秀長・秀次軍は、秀吉方の森村春の守る土佐泊城に入ったあと、讃岐屋島から上陸した蜂須賀正勝父子・黒田孝高軍と合流して木津城(現、徳島県鳴門市)を攻め落とし、一宮城(現、徳島県徳島市)を包囲したものの攻めあぐんだため、兵をわけて周辺の敵城を攻撃する作戦に出た。本状はかかる情勢のもと、秀吉が戦略・戦術にかかわる細かい注意を書き送ったもの。
 まず一条目では、一宮城包囲戦に関して、「仕寄」(包囲網をしぼって城ぎわに寄せていくこと)を厳しく申しつけたことによって丸三(三の丸の意か)から敵が撤退したことを秀長から聞いたことを述べ、以後の仕寄においても負傷者を出さぬよう指示している。なお、本状と同じ日付で筒井四郎(定次)と伊藤掃部助(祐時)に宛てられた朱印状から、この時包囲軍が城の水の手を断つ作戦を行っていたことがわかる(『伊藤文書』、『大日本史料』第十一編之十七)。
 続く第二条では、牛岐城(現、阿南市富岡町)については人質をとって攻略に成功したことを了解した上で、どこどこの城を攻め取ったといって布陣中の者達は油断してはならない、大軍だからと安心して緊張を緩めてしまうと、下々の者は味方の軍勢を敵と見誤ったりするものだ、と青表紙(儒学関係の書物、経書)に見える、と戦場での心構えを記している。秀吉は先の筒井・伊藤に対する朱印状でもこの「青表紙」の教訓を挙げており、その教養の一端をかいま見ることが出来る。
 最後の第三条では、長宗我部元親の居所を突き止めるよう求め、以後も報告の怠りなきよう告げて結びとしている。
 『中川家文書』には、六月一七日付けの一五号文書から本状まで、こうした秀吉の戦時中の指示や陣中見舞いを伝える文書が七通残っており、これに『中川氏年譜』(『中川史料集』所収)に収載の六月二九日付け秀吉朱印状(秀政からの二七日付け書状を受け、木津城二之丸まで取り詰めたことの労をねぎらい、詳しくは秀長へ申し遣わしたので相談するよう指示するもの)を加えると、実に一ヶ月ほどの間に八通の朱印状が送られていることがわかる。その中には単に見舞いを述べるためのものもあるが、多くは城の攻め方や、開城後の処置などについて細かな指示を送るものである。これは、秀吉が生前清秀と「兄弟之契約」を交わした間柄にあり(「摂津中川清秀宛羽柴秀吉誓書」『増訂織田信長文書の研究』下巻)、また秀政自身いまだ一八歳の若年であったことによる配慮もあろうが、先に見た伊藤祐時にも七月六日から二七日の間に四通の朱印状が送られていることが確認できるから、必ずしも中川氏に特殊な事例ではなく、秀吉の部下の諸将に対する細かな気配りを示しているといえるのではなかろうか。
 作戦変更後、戦況を優位に進めた秀吉軍は、秀長から一宮城の守将谷忠澄を通じて元親に講和を提案する。当初これに反発した元親もついにかなわぬとみて降伏を決め、八月初旬に元親に土佐一国のみの領有を認めることで講和が成立、秀吉の四国平定は完了する。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)