二三 (年月日未詳) 羽柴秀吉朱印状

 三木郡・加東郡・野口村に「不足分」をあわせて総計六万五千八百石余を書き上げた知行目録。後に付けられた包紙には、「秀吉様より之御知行添御目録」と記されている。
 天正一三年(一五八五)、秀吉は八月までに相次いで紀州平定・四国平定・越中の佐々成政の討伐を成し遂げ、その支配圏を東は尾張〜越中を限るライン、西は四国・中国にまで広げるとともに、七月には関白を拝任した。こうして天下統一と自己の政権樹立への道を固めた秀吉は、翌閏八月、全所領にわたる大規模な領知替えを実行し、支配体制の強化を図った。これは、本拠大坂を中心に、同心円状に所領を編成するもので、摂津には直臣団を配し、河内は直轄領とし、畿内とその周辺の国々に一族ならびに近習を配置した。そしてその周辺に直臣大名・服属大名の所領を与えたのである。加えて、この領知替えは迅速かつ徹底的なもので、全家臣団を家族ともども引き連れて早急に新領地へ移ることが求められた一方、これに伴う百姓の移動は禁止された。かくして、大名達はその本領から切り離されて本主権を喪失、豊臣政権の領土と百姓に対する支配権はより強固なものとなった。
 本状は、この領知替の一環として中川秀政が摂津茨木から播磨三木へ移封された折りの知行割に関わると考えられるもの。この時諸大名には秀吉の領知朱印状にそえて石高と所在地を書き上げる別紙知行方目録が与えられており、本状はそのような目録を写したものか。ただし、『中川家文書』にはこの際の領知朱印状は残されていない。また、目録に見える地名のうち、「三木郡」は三木の地を含む郡名であるが、特に室町時代後期〜江戸時代初期に使われた呼称名で、一般的には美嚢(みのう)郡として知られる。加東郡はその北西にあたる郡。江戸時代初期の『正保郷帳』に見える三木郡・加東郡の総石高(それぞれ三万七千六八七石余・四万六千六八〇石余)と本状に見える石高を比較するに、この両郡に関しては大半が秀政に与えられたようである。また野口村は三木(美嚢)郡の南西に接する加古郡に属す。なお、この領知替で摂津高槻城主であった高山重友(右近)も播磨明石に移され、三木(美嚢)郡に南接する明石郡を与えられており、結果、かつて北摂の京都と大坂をつなぐ要路上の地を支配していたこの両者が、西国と畿内との境界領域にあたる東播磨の東半分を領することとなった。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)