二八 天正十八年一月 日 豊臣秀吉陣定

 天正一七(一五八九)年一一月、秀吉はいわゆる”関東惣無事令”に基づいて下した、上野国沼田領に関する真田氏との紛争の裁定に違反したことを理由に、関東の雄・北条氏に最後通牒をつきつける。しかし、北条氏の当主・氏直は、翌一二月に送った返答においても弁明を行うばかりで、秀吉の満足を得ることはなかった。ここに両者の対立は決定的なものとなり、秀吉は北条氏打倒を最終決断するに至る。そして早くもこの月のうちには徳川家康らの有力大名を迎えて軍議を開き、諸大名の軍役を定めるなど、着々と出陣にむけて準備を進めることとなった。
 本状はかかる情勢の中、来る三月の出陣を控えて秀吉が中川秀政に与えた軍律の定めである。第一条では、軍勢が「味方の地」において濫妨(掠奪)・狼藉(暴行)を行うことを「一銭きり」に処すとまで述べて厳禁する。続く第二条では、陣取りにおいて失火をしたものは逮捕し、もし逃亡したならばその主人を処罰すると述べる。最後に第三条では、糠・藁・薪・雑事以下は(陣取り先の)亭主の納得の上で取るように、としている。そしてこの軍律に違反したものは、厳罰に処す、としており、軍勢に厳しく規律の遵守を求めるものと言えよう。
 ところで、このような軍規の厳守を前提として成立したものが、戦場の寺社や村・町に交付された”禁制”である。秀吉の小田原攻めに当たっては、信濃・遠江などの一国を対象とするものを含めて大量の禁制が発行されたことが知られている。このうち、出陣以前のものはほぼ同一の内容を持っており、それは、@軍勢甲乙人の濫妨狼藉A放火B地下人百姓への非分申し懸け、の禁止を保障するものであった。容易に理解できるように、この三点は先の軍律の各条目に対応している。この禁制が発給された地域こそが、軍律第一条に言う「味方の地」にあたり、条文に定められたような住民への保護がなされるのである。また、禁制と軍律の比較によって、「味方の地」において軍勢の陣取りは当然の行為であり、そこでの濫妨狼藉や失火・放火、非分申懸け=勝手な糠・藁以下の徴収という反社会的行為、いいかえれば軍隊の進駐を前提とした上で発生しうる事件の抑止を図るものであったことがわかる。このことは、軍律がそのまま禁制に準じて下付された例(遠江国を対象としたもの)があることからも確認出来る。鎌倉期以降、禁制は「乱入狼藉」という文言をかかげて武士や軍勢の侵入を禁止することが多かったが、戦国時代になると「乱入狼藉」よりも「濫妨狼藉」すなわち掠奪乱暴が禁止事項として多く現れるようになり、禁制対象地への軍勢の侵入=陣取りのことは禁制から脱落する傾向となった。そして本状にみるような、陣取りを前提とした禁制交付は信長ころまでに定着し、秀吉権力においては殆ど除外例を許さぬものになるといわれる。ここに、武士・軍勢の進駐を拒絶する寺社や村・町を自らの統制下に組み込んでゆく統一権力の性格のありようを読みとることも出来よう。
 本状とほぼ同じ内容をもつ軍律定書は、すでに天正九年六月の鳥取攻めの時に見られ(一柳市介(直末)宛、『一柳家文書』)、さらに天正一二年三月の小牧・長久手の戦い(福島市兵衛尉(正信)宛、『東京国立博物館所蔵文書』、『豊臣秀吉文書目録』による)や天正一三年五月の四国攻め(加藤孫六(嘉明)宛、『近江水口加藤子爵家文書』など。『大日本史料』第十一編之十六、同年五月二〇日条参照)の際にも見られ、早くから秀吉軍の軍律となっていた。なお、上のうち、四国攻めの折りの四通のうち三通は、同じ宛所で五月の日付を持つ秀吉の軍令書が存在する。本状の包紙(後年の整理の際つけられたもの)には「御出陣之節従 秀吉様之御朱印弐通」とあるが、かつては秀政への出陣命令書とともに保管されていたのかもしれない。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)