二九 (天正十九年)閏一月二日 羽柴秀吉朱印状

 天正一三年(一五八五)七月、関白となって名実ともに天下人の地位を確立した秀吉は、翌一四年、京都に自らの居城・聚楽第を築くとともに、天下太平を祈願するための大寺として、京の大仏の造営を企画する。寺地は当初東山・東福寺のあたりに予定されたが、のち三十三間堂の北方六波羅の地に変更されて、この年七月中頃に着工された。しかし、この時は、聚楽第に加えて大坂城の第二期工事や禁裏造営などの大工事が同時進行しており、工事はいったん中止された。
 大仏造営が本格的に再開されたのは、天正一六年五月である。事業は、諸大名に石や木材を始めとする資材を収集・運送させるとともに、普請(土木工事)も彼らに分担させる普請役として行われた。この時は五畿内を除いた近国の大名達が動員されているものの、中川秀政は役儀を免除されたようである。
 工事は途中小田原の陣などで再び中断したが、天正一九年に再開。本状はこの年の後(閏)正月二日付で秀政ほか三名の大名に宛てられたもので、材木を京都の外港である淀(現、京都市伏見区淀)まで引き上げるよう命じたもの。秀吉はこの年一月一五日付で豊後の大友義統に長さ一四間(約二五b)の松六本、毛利輝元に周防・備後・備中の松・杉・檜など、長さ四・五間から一〇間の材木千三百本余を尼崎に回漕するよう命じていることが確認できる。かくして諸国から尼崎また大坂に集められた木材は、文中「川筋に候あいだ、情(精)を入れ候わば、木数早速あい届くべく候」と見えるように、淀川・木津川をおそらくは筏に組んで川筋を引き上げられた。秀成(播磨三木城主)を始め、ここに見える三名は木下勝俊(播磨龍野城主)・木下利房(若狭高浜城主)・山崎家盛(父片家が摂津三田城主。ただし片家はこの年三月死去している)と、畿内周辺の中小大名がこの役儀に動員されたらしい。秀吉は「軍役御書付」の人数を揃え、「下々番手」などへ申しつけず、自身が現地で指揮統括するよう厳命しており、事業に対する秀吉の力の入れようが伺える。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)