三 (天正十年)六月十日 羽柴秀吉書状写

 天正一〇(一五八二)年六月二日、織田信長は京都・本能寺にて明智光秀の襲撃をうけ、志半ばにして世を去った。翌日それを知った秀吉は、在陣中の備中高松(現、岡山市高松)よりとって返し、一三日には光秀を山崎(現、京都府大山崎町)にてうち敗った。本状はこの間、秀吉が明石(現、兵庫県明石市)を通過した翌一〇日、茨木城の中川清秀に送った書状(の写し)である。
 秀吉はすでにこれに先立つ五日付の書状で清秀に信長・信忠父子が無事であるとの偽の情報を流し、清秀が光秀方に付くことを牽制している(『梅林寺文書』、『大日本史料』第十一編之一)。「御状本望」「其元いよいよ相替る儀無きの由」といった文言から、本状はそれに対する清秀からの返答をうけて出されたものであることがわかる。清秀は秀吉に味方する旨と、光秀が茨木城のある摂津国か河内国へ動くとの噂を伝えたようで、秀吉はもしそう動いたならば自分は「一騎駆」で夜中であっても馳せ参ずるとの決意を表明するとともに、清秀にも出兵するよう願っている。さらに秀吉は、翌日には兵庫(現、兵庫県神戸市)・西宮(現、兵庫県西宮市)に達する、すなわち摂津国に入ること、領国播磨の守りを固め、また高山右近や丹羽長秀と連絡を取り合っていることを述べ、柴田勝家の動静までも示して、光秀打倒の布陣が着々と整いつつあることを清秀に訴えかけている。
 二号文書に見えるように、秀吉と清秀は既に書状を頻繁にとりかわす間柄ではあったが、究極の非常事態の中で、清秀に対し自分と結ぶことへの確信をもたせようとしたのだろう。この結果、清秀は翌一一日に秀吉軍と合流し、山崎の合戦において本隊の一翼を担って活躍することになる。
 なお本状は写しであるが、大阪城天守閣の一九九四年度特別展『戦国の五十人』に原本が福井・水谷家所蔵として出展され、存在が確認された。原本は折紙。また、文言に若干の異同が見えるため、本解題は、原本で確定した文言に従って作成した。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)