三〇 (天正十九年)五月十四日 豊臣秀吉朱印状

 二九号文書と同じく、天正一九年(一五九一)に工事が再開された、同一四年着工の京の大仏造営に関する史料で、四ヶ月半ほどのちの五月一四日付け。秀吉は、尼崎にある材木の注文(明細書)は確認した、急ぎ差し上げよ、と命じている。
 宛先は、二九号文書と同じ中川秀政(播磨三木城主)・木下勝俊(播磨龍野城主)・山崎家盛(摂津三田城主)と、木下利房(若狭高浜城主)に替えて山崎定勝の四人。定勝は家盛の弟である。文面から、彼らが中世から瀬戸内海と淀川・神崎川を中継する港湾として発達し、とりわけ材木の集散地として知られた尼崎(現、兵庫県尼崎市)で、各地から廻漕されてくる材木の受け取り・管理と京への輸送にかかわっていたことがわかる。秀吉はこれも二九号文書同様、大名自身が現地で指図するよう厳命しており、事業に対する意気込みの程がよくわかる。
 なお、この天正一九年再開以降の大仏造営工事については、秀吉の信任厚かった高野山興山上人木食応其が工事を統轄し、同年から三ヶ年分の工事の収支明細を詳細に記録していることがよく知られている。それによれば、工事はこの三ヶ年のみで、番匠・鍛冶・杣・石切・屋根葺などの職人を延べ六〇万五千人も動員する大工事であったことがわかるが、やはりこの記録の中に、紀伊(現、和歌山県)と近江甲賀(現、滋賀県甲賀郡)からの材木の切り出しと輸送の費用に関する項目が含まれている。これによると、特に前者に関しては、紀伊の各地で伐採された材木は紀湊(現、和歌山市)に集められて大坂もしくは尼崎に廻漕され、そこから淀・鳥羽(ともに現、京都市伏見区)まで淀川を船で輸送、淀・鳥羽から大仏までは陸上輸送となっている。そして、大坂・尼崎からの河川輸送に関しては、大坂天満・淀・鳥羽・淀三宅の船持商人の手に委ねられ、船賃として総計米五一〇石余が支払われていることもわかる。
 この、応其が船持商人(問丸=運送業者のような存在か)に委託した材木の輸送と、秀成らの大名たちが普請役として命ぜられ、自ら尼崎で人足たちに指示しておこなった輸送がいかなる関係にあったかについては不詳。あるいは材木の切り出し先や用材の大きさなどで分担があったのかも知れない(応其の担当分は船で運んでいるが、二九号文書によればこちらは「引き上げ」ている)。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)