三三 (天正十九年)十月一日 豊臣秀吉朱印状

 天正一三(一五八五)年七月、関白となって名実ともに天下人の地位を確立した秀吉は、翌一四年、京都に自らの居城・聚楽第を築くとともに、天下太平を祈願するための大寺の建立を企画する。すなわち、奈良の大仏に相対する京の大仏の造営である。寺地は当初東山・東福寺のあたりに企画されたが、のち三十三間堂の北方六波羅の地に変更されて、この年七月中頃に着工された。しかし、この時は聚楽第に加えて大坂城の第二期工事や禁裏造営などの大工事が同時進行しており、工事はいったん中止された。
 大仏造営が本格的に再開されたのは、天正一六年五月である。よく知られているように、没収した武具の大仏殿造営のための釘・かすがいとしての利用が、こののち七月八日に初令が発せられる刀狩令の名目とされていたこともあって、一五日の定礎式にあたっては、京都の町衆四千人を動員して風流踊を組織させるなど派手なイベントが行われ、庶民へのアピールが図られた。しかし、事業自体は中世以来の広く衆庶に勧進して結縁を求める形ではなく、諸大名に石や木材を始めとする資材を収集・運送させるとともに、普請(土木工事)も彼らに分担させる普請役として行われた。工事は途中小田原の陣などで再び中断したが、天正一九年に再開し、ようやく文禄四(一五九五)年夏に完成、落慶法要が営まれた。天正一六年七月に諸大名に発せられた動員計画では毎月四千〜一万人、また天正一九年から文禄二年までの三年間で、番匠・鍛冶など職人のみでのべ六〇万五千人を動員する大工事であった。
 本状は、中川秀政(天正一四年右衛門太夫任官)に対し、大仏殿の漆喰用の搾った荏胡麻(油かす?)・荏胡麻油・白木の実の油、さらに膠用の牛皮を領国播磨で購入して上進せよ、と命ずる秀吉の朱印状。本状と同じ日付でほぼ同じ文言の秀吉朱印状が、堀秀政(越前北庄城主)、長谷川秀一(越前東郷城主)、溝口秀勝(加賀大聖寺城主)、一柳直末(美濃軽海城主)に発給されていることが知られるが、このうち一柳と堀は、天正一八年の小田原の役の折り、それぞれ三月・五月に病死・戦死している。加えて秀吉は、天正一七年八月には豊後国臼杵の唐人町に居住する技術者陳元明等に対して「大仏油蛎」造立の功を褒賞する朱印状を与えているとされるから、本状は天正一六年か一七年のもので、前者の可能性が高いと推定される。なお、荏胡麻の油かすや荏胡麻油、白木油は漆喰用の粘着材である。膠も壁材であろう。
 秀政の領国播磨は、中世石清水八幡宮に属して荏胡麻油の製造・販売に関する特権を公武権力から認められていたことで著名な大山崎(現、京都府大山崎町・大阪府島本町)の神人たちが、一三〜一五世紀を通じて買い付けに訪れたことでも知られる荏胡麻の一大産地であった。また牛皮については詳しくはわからないが、江戸時代始め寛永年間成立の俳諧書『毛吹草』巻四、”諸国より出る古今の名物”の播磨国の部に、「室滑(鞣)」や「馬皮」が見えるから、牛馬の皮革の利用が進んでいたことと関わるのかも知れない。また、秀政とともに命令を受けた大名たちの居城のある越前・加賀・美濃はいずれも『延喜式』で荏胡麻油を調として納める国々であり、加えて彼らが皆、特に秀吉の信任の厚い近臣ともいうべき存在であったことにも注目される。
 このように大量の人員と資材を投入して造営された京都の大仏であったが、文禄五年(=慶長元年)閏七月一三日、畿内を襲ったいわゆる「慶長の大地震」であえなく大仏殿を残して倒壊することになる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)