三五 (天正廿年)三月十三日 豊臣秀吉朱印状

 天正二〇年(一五九二)三月一三日付で、中川秀政・木下勝俊・木下利房に宛てられた秀吉の朱印状。秀吉の第一次朝鮮侵略、いわゆる文禄の役に関するもの。
 天正一九年八月、対馬の領主・宗氏を通じて行ってきた、朝鮮を明侵略に協力させるための交渉が頓挫したことを知った秀吉は、「唐入り」、すなわち明征服の決行を来年春に行うことを天下に告げ、そのための大本営として、玄界灘に突き出た半島の先端部の地・肥前名護屋(現、佐賀県東松浦郡鎮西町)に築城を開始する。そしてその進行中の翌年正月五日には、朝鮮出兵を号令し、全国の諸大名に名護屋城への集結を命じるとともに、特に九州・四国・中国の諸大名へは三月一日以後の渡海を指示した。
 本状はそれから二ヶ月後に出されたもので、文中、「九州・四国・中国人数、高麗に至り罷り渡るべきの由、仰せ出」られた、とあるように、秀吉は本状と同じ三月一三日付で、九州・四国・中国の大名の軍勢一五万八千七百人を九番に編成する陣立書(特定の合戦を想定し、自己の軍勢の配置を示した文書。制定者の花押または印章を据えて各武将に発給された)を作成し、各大名に渡海を命じたのであった。
 但しこの時点では秀政らについては「先へ罷り越す儀無用」として、二月に普請(土木工事)を終えた名護屋城に陣を構えるよう命じている。また、あわせて秀吉自身は三月一日に出陣して名護屋城へ向かう予定であったが、延期したことを報じている。これは実際は眼病などのためであったが、本状で秀吉は、徳川家康や前田利家を始め、関東・東北の大名とその軍勢が名護屋へ向かっているため、道がつかえているので延期した、すき次第(名護屋城に)着座する、と述べており、彼の大言壮語癖がよくわかっておもしろい。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)