三六 (天正廿年)四月十五日 豊臣秀次朱印状

 秀吉の第一次朝鮮侵略(文禄の役)の開戦直後、天正二〇年(一五九二)四月一五日付けで、関白豊臣秀次が中川秀政に宛てた朱印状。秀次は秀政に、どこまで着陣したのか、先陣の様子を聞かせてほしい、と申し送っている。
 秀次が朝鮮侵略の間、在陣の諸将に対して、陣中の労をねぎらうとともに戦況の報告を求める見舞状を度々まとめて発給していることが知られている。まだ朝鮮に着陣したかしていないかという段階であるため、見舞いというほどの文言はないが、本状はそのような見舞状の最も早い時期のものと見て良かろう。数は多くないものの、同日付けで本状と似た文言のものが加藤嘉明や毛利輝元あてにも出されていることが確認できる。
 こうした陣中見舞状については、前年一二月に秀吉から関白職の移譲を受けたものの、いまだ実質的な権力基盤は極めて脆弱なものでしかなかった秀次が、大名たちと個別に関係を結び、主従的な関係を深めることでその強化を図ろうとする、彼なりの政治行動であったかと推定されている。秀政が本状にどう答えたかは定かでないが、かなり詳細な注進状を送り届けている事例も見られるという。
 この頃の秀次については、名護屋在陣中の秀吉のたんなる留守居役にすぎなかったとの見解が有力となっているが、地道に諸大名に対する働きかけを行っていたのである。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)