三七 (天正廿年)五月八日 西尾光次書状

 三六号文書の豊臣秀次朱印状の文末に、「猶西尾豊後守(光次)申すべきなり」とあり、また文面からも、同文書に添えられたものと考えられるもの。天正二〇年(一五九二)五月七日付け。なお、差出の西尾光次は秀次の側近である。
 文中意味を取りにくいところもあるが、秀次の使いとして名護屋に到着したところ、秀政はすでに渡海していたので、そのもとに参上してお目にかかってお話しを伺いたかったが、「太閤様(秀吉)仰せ出でらるる趣」によって便を得られず、使者なりとも送りたいがそれも一切不可能であるので、幸便をもって御朱印(三六号文書を指す)を進上します、高麗(朝鮮)で早速敵を撃破したとのこと、誠にお手柄この上なく存じます、吉報をお待ちしています、といった内容であろう。
 すなわち、西尾は朝鮮に渡った秀政のもとを見舞って陣の様子を尋ねようとしたのだが、「太閤様仰せ出でらるる趣」によってそれが叶わなかったことがわかる。この秀吉の命令とは何を指すかはよくわからない。ただ、文中の「便」が具体的に渡海の便、すなわち船を指すならば、この時期、諸大名が自前で準備した輸送船までもが渡海後は秀吉の船奉行に接収され、その厳重な管理運営のもと、後続の兵員の輸送に充当されていたことと関わるのかも知れない。いずれにせよ、秀次の朱印状を帯びた使者の渡海が叶わなかったことから、この朱印状=見舞状(三六号文書解題参照)の発給が、秀吉の関知しない、秀次独自の判断によるものであったことが確認できる。
 なお、秀政の挙げた「御手柄」についても詳細は不明。「中川氏年譜」(『中川史料集』所収)では、秀政軍を含む侵略軍が、朝鮮軍の番船に釜山浦上陸を阻止されて数日を送っていた際、秀政の家臣柴山両賀が奇策を用いて番船に放火、全軍の上陸を成功させた、という話を載せているが、ことの真偽は確認できない。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)