三八 (天正廿年)五月八日 豊臣秀吉朱印状

 天正二〇年(一五九二)四月、秀吉は一五万八千七百人の兵力を九番に編成して第一次朝鮮侵略に着手する(いわゆる文禄の役)。この時、中川秀政は、番外の諸隊の一角として、三千人の兵を率いて渡海した。
 本状は、当初自ら渡海を計画していた秀吉が、それに備えて、上陸地の釜山から首都・漢城までの御泊所の設置を指示したもので、四月一三日の小西行長率いる一番隊による釜山鎮城攻撃開始から約一ヶ月を経た五月八日付け。すでに五月二日、一番隊と加藤清正率いる二番隊は漢城を陥落させていたが、肥前名護屋城にいる秀吉はまだそれを知らない。宛先は、秀政(播磨三木城主)の他、稲葉貞通(美濃郡上八幡城主)・宮部長煕(因幡鳥取城主)・南条元清(伯耆羽衣石城主)・荒木重堅(因幡若桜城主)・垣屋恒総(因幡浦住城主)・斎村政広(但馬竹田城主)・明石元知(但馬豊岡城主)・別所吉治(丹波園部城主)の、諸隊を構成した主に山陰を中心とする中小大名たちである。秀吉は名護屋城に到着した翌日の四月二六日、渡海の諸大名に在陣中の「掟」を発し、その一ヶ条として「隙明次第」の御泊所普請について触れているが、本状はこれについて単独かつ具体的な命令を出した最初のものと思われる。
 本状で秀吉は、九大名に、御泊所の普請を三百〜五百人ずつを負担して手分して行うように、但しその造作については前年の九州島津氏攻めの時同様、粗相でもかまわない、と申し送っている。この時点ではこの五月中の渡海を考えていたという秀吉のはやる気持ちがかいま見える。また秀吉は、毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家は先陣の予備軍として漢城まで油断なく詰めるよう指示したので、御泊所については銘々が見計らって申しつけ、普請が完了したら前進するように、とも命じている。毛利・小早川・宇喜多は各々三万・一万・一万の兵力を有する七・六・八番隊の主力であるが、秀政らの諸隊はこれと行動をともにしており、秀吉はまだ漢城陥落を知らないこの時点では、主力軍は軍事行動に振り向け、秀政ら諸隊に工兵隊的な任務を割り当てたのだろう。
 そして、本状を発したのち、朝鮮半島を攻め上っていた小西行長から「道通の絵図」の進上を受けた秀吉は、この九大名に御泊所の普請をさせるという構想を維持した上で、より詳細かつ具体的なプランを作成する。それが三九号文書である。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)