三九 (天正廿年)五月十二日 豊臣秀吉朱印状

 天正二〇(一五九二)年四月、秀吉は一六万の兵力を九番に編成して第一次朝鮮侵略に着手する(いわゆる文禄の役)。この時、中川秀政は、番外の諸隊の一角として、三千人の兵を率いて渡海し、各地を転戦することとなった。
 本状は、秀吉が自身の渡海に備えて、上陸地の釜山から首都・漢城までの御座所(御泊所)の設置を指示したもの。本状に先立って、秀吉は既に何度か適当な地点を見計らって普請を行うよう各武将に指示しているが、それがより具体的なものとなるのが、『中川家文書』三八号文書と本三九号文書である。
 五月八日付けの三八号文書で秀吉は、中川秀政以下九名の部将に、御座所の普請を三百〜五百人ずつで分担して行うように、但しその造作については粗相でもかまわない、と申し送った。続く本状も、同じ面々に宛てられたものであるが、指示はさらに詳細なものとなっている。即ち、設置場所としては「能き所を見計」らえとしつつも、五月二日に漢城を攻略した小西行長が進上した「道通の絵図」に基づき、釜山から聞慶までの里程を示し、聞慶から漢城までは三ヶ所程でよいのではないか、とも述べている。造作に関しても茅葺きでよいとし、建造後は各御座所に在番するよう求めている。その上で、宛先の九人に八ヶ所の普請を分担させ、普請役の賦課人数も定めている。この賦課人数は三八号文書の三百〜五百人とは異なり、文禄の役での軍役人数とすべて一致しており、秀政も三千人となっている。このことから、普請役が諸将に本役として賦課された事がわかる。
 日ごとに移り変わる戦況を考慮してか、秀吉のプランは次々に修正され、五月一六日に出された朱印状(『大日本古文書 毛利家文書之三』九二六号文書)では、漢城での御座所の普請を九州衆と宇喜多秀家に命ずるとともに、釜山浦から都(漢城)までの一三ヶ所の普請を毛利輝元・蜂須賀家政といった大身を含めた諸将に割り当てている。三八・三九号文書の九名に関しては、秀政と稲葉貞通が一人で一ヶ所を受け持つ以外は、因幡衆(宮部長煕・荒木重堅・垣屋恒総か)・伯耆衆(南条元清)で一ヶ所、但馬衆(斎村政弘・明石元知・別所吉治)で一ヶ所を分担するのみに縮小された。これは負担能力をより現実的に判断しての変更であろう。
 このように天正二〇年五月の時点でめまぐるしく計画を修正・変更しながら御座所の構築を急がせたのは、同月中に秀吉の渡海(漢城への動座)が予定されていたからであった。しかし翌六月には渡海は翌年三月に延期され、六月三日付朱印状で「大明への道筋」への御座所普請(漢城以北における普請を指すか)が命じられるものの(『黒田家譜』)、七月以降の秀吉朱印状には御座所普請に関する指図は見えなくなるが、『中川家文書』四六号文書で確認出来る諸将の在番状況から、少なくとも城郭がほぼこの計画にそって構築されたことは確実であろう。しかし、これらを経由して大明国征服に向かう筈だった秀吉が、渡海することすらなかったことは周知の通りである。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)