四〇 (天正廿年)五月廿七日 豊臣秀次朱印状

 天正二〇年(一五九二)五月二七日付けで、関白豊臣秀次から第一次朝鮮侵略(文禄の役)に在陣中の中川秀政に宛てられた見舞状。
 秀次は秀政に対し、高麗(朝鮮)への渡海の労をねぎらうとともに、そちらは程なく平定されるだろう、変わったことがあれば報告するように、と申し送っている。朝鮮では五月二日に首都・漢城が陥落しているが、その情報は、五月一六日に肥前名護屋城の秀吉のもとに伝わっているから、二七日までには京都の秀次のところにもその知らせは至っていると推定される。よって、本状はそれを受けて出されたものかも知れない。
 なお、本状と同一の日付でほぼ同様の内容を持つ見舞状が、加藤嘉明・毛利輝元・吉川広家・小早川隆景などにも発給されていることが知られ、秀次はこの日、朝鮮在陣の諸将に対して、一斉に陣中見舞を送ったことがわかる。こうした、在陣の労をねぎらうとともに戦況の報告を求める見舞状は、秀次独自の判断で発給され、こうしたやりとりによって大名たちと個別に関係を結び、主従的な関係を強めようという、秀次なりの政治行動であったと考えられている(三六号文書・三七号文書解題参照)。ちなみに、三六号文書では見舞状は側近である西尾光次が帯同していたが、本状では文末に取次役の人名がなく、見舞状のみが届けられたことがわかる。三七号文書で見たような伝達上のトラブルに配慮したものかと思われる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)