四二 (天正廿年)十一月十日 豊臣秀吉朱印状

 天正二〇(一五九二)年四月一二日の侵略開始以来、北西では平壌、北東では咸鏡道までを席巻した秀吉軍であったが、李舜臣率いる水軍に連戦連敗したことから、全羅道・慶尚右道への西進はかなわず、当初予定した全羅道沿岸を航海して漢城・平壌付近で兵糧を荷揚げする計画は不可能となった。加えて、朝鮮義兵(民衆によって自発的に組織された軍隊)によって陸の輸送路を寸断されたために、秀吉軍は飢餓の危機に陥ることとなり、こうした情勢の打開をはかるべく、一〇月初旬、二万の大軍をもって全羅道侵入の要衝・晋州邑城を攻撃した。
 しかし、侵略戦の今後を占うこの攻防戦において、秀吉軍は官兵・義兵が一体となった朝鮮軍の奮戦によって撃退され、結果、釜山から漢城への補給路の確保に困難を来すことになる。本状は、このような情勢のもと、一一月一〇日付けで秀吉が中川秀政に送った朱印状。秀吉は、秀政が陽智城に在番していることを了承した上で、来春には渡海して「一揆原(官兵と義兵)を制圧するので、それまでの間城を堅固に守備し、兵糧を備蓄し、城の普請を丈夫にせよと命じ、遠方への軍事活動は一切無用としている。その上で釜山浦から首都漢城もしくは小西行長の在城(平壌)迄の道筋往還の確保を指示している。追而書でも兵糧の確保を繰り返し述べていることが印象的である。また、極寒の中の在陣をねぎらい、小袖二枚を送るとも書き添えている。冒頭に見える熊谷(直盛)・垣見(一直)は、この時慰問使として派遣された秀吉使番衆。
 本状から当時秀政が陽智(京幾道)に在陣していたことがわかるが、この日付けで秀吉は、在朝鮮の諸将にあてて一斉に本状同様のねぎらいと指示を与える朱印状を送っていることが知られる。そこでの指示内容は、在陣の場所や軍事面での役割によって内容に若干の相違があるが、兵糧の確保と城の守備という点でほぼ共通し、普州邑城攻防戦の敗北による打撃の大きさと、作戦の方向性が積極的な侵攻から防衛戦に転換しつつあることが読みとれる。すなわち、この時期は秀吉の侵略戦における大きなターニング・ポイントとなったのである。
 なお、秀政については、城の普請と釜山−漢城−平壌のルート確保が命ぜられていることが特徴的である。三九号文書や四国攻めの際の一五号文書なども勘案するに、秀政とその部隊は、秀吉軍の中で、前線での戦闘そのものよりも、兵站線の構築と維持を主要な任務としていたかと推測される。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)