四三 (天正廿年)十二月六日 豊臣秀吉朱印状

 天正二〇年(一五九二)一二月六日付けで、秀吉が第一次朝鮮侵略(文禄の役)に在陣中の中川秀成にあてた朱印状。
 秀政が部下を連れず番所へ敵情視察に出て待ち伏せに逢い、その時の負傷がもとで死亡との報告を了承した。兵卒を率いる者ならば、先陣として斥候や弓・鉄砲兵を出してから出陣すべきであるのに、不用意によって右のような始末となり、誠にけしからんことである。本来なら跡目の相続は認められないが、「父(清秀)御用にまかり立ち、討ち死にせしめ、忠節の者」であることをもって、その方に跡目を申しつける。もし今後行き届かないことがあれば、処罰する。その旨了解の上、家老の者たちにも申し聞かせ、しっかりと番などを申しつけよ。来春には自分が渡海するので、その間油断なきようにせよ…。
 すなわち、当時京幾道・陽智城の守将であった、秀成の兄で中川家当主の秀政は、おのれの軽率な振る舞いがもとで、朝鮮の地で二五歳にしてその生涯を終えたのであった。そしてこれを聞いた秀吉は、秀政の一軍の将にあるまじき行動を怒り、本来改易とすべきところであるとしながら、秀政・秀成の父、清秀の忠節に免じて特別に秀成に家督の相続を許したのである。清秀は、秀吉とともに信長の部将であった時代には「兄弟の契約」を交わし(「摂津中川清秀宛羽柴秀吉誓書」『増訂織田信長文書の研究』下巻収録)、信長死後は秀吉に仕え、秀吉が信長の後継者としての地位を確立した、天正一一年の賤ヶ岳の戦いで秀吉方の将として戦死している。文中の「御用にまかり立ち、討ち死にせしめ」とは、この事実を指す。
 なお、「中川氏年譜」(『中川史料集』)所収)は秀政の死について、これは一〇月二四日に、秀政が現地で鷹狩りを催し、その際薪伐り・苅田に出ていた日本の雑兵が朝鮮兵に追われているのを見かけ、それを助けようとして毒矢で射られたもので、家老たちが合議して秀吉には上のように報告した、とする。もしこれが事実であれば、一一月一〇日付けの秀政あて秀吉朱印状(四二号文書)が発給された際には、秀政は既にこの世にはいなかった、ということになる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)