四五 (天正廿年)十二月六日 豊臣秀吉朱印状写

 天正二〇年(一五九二)一二月六日付けで、第一次朝鮮侵略(文禄の役)に軍奉行として従軍していた三人の秀吉奉行(増田長盛・石田三成・大谷吉継)に宛てられた朱印状の写し。彼ら軍奉行は、肥前名護屋城にある秀吉の意向を在陣の武将たちに伝え、また、現地の状況や武将たちの軍功と非違を監察して秀吉に報告する職掌を担っていた。
 本状は三つの箇条書きから成るが、うち第二・三条は同日付けの諸大名あて朱印状(四四号文書参照)とほぼ同じで、京幾道・陽智城の守将であった中川秀政の頓死により、弟秀成へ跡目相続を認めた同日付けの朱印状(四三号文書)を受けて、その旨を伝達するとともに、自身来春三月に渡海するので、その間城をしっかりと守り、軽率な行動をとらないように厳命し、下々の者にまで堅く申し聞かせよ、とする。加えて第一条では、目付たちの戦況報告を了承し、来春三月に渡海して「一揆」(朝鮮側の官兵と義兵)をみな成敗して仕置を申しつけるので、兵糧を備蓄して待つように、と述べている。
当時秀吉軍は、一〇月初旬の晋州邑城(慶尚道)攻防戦に敗れて全羅道侵入を果たせず、結果釜山〜漢城間の補給路の維持が困難となり、その作戦の方向性が明侵略を視野に入れた積極的な侵攻から防衛戦へと転換しつつあった(四二号文書解題参照)。本状に見える、城の守りを固めて兵粮を備蓄せよ、という指示もそれを反映している。
 なお、本状は写しであるが、日付を四三号文書・四四号文書と同じくし、秀成への相続承認にかかわるものという点で内容も共通することから、上の二通とともに朝鮮にもたらされたものであろう。そして、軍奉行たちへの指示を含む本状については、正文は彼らのもとに留め置かれ、写しのみが陽智城の秀成のもとに届けられたものと思われる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)