四六 (文禄元年)十二月八日 豊臣秀吉朱印状

 文禄元(天正二〇より改元、一五九二)年一二月八日、秀吉が中川秀成(秀政の弟)からの使者を返すので、在陣先の陽智城まで警固を出して確かに送り届けるよう、釜山から陽智までの途上に在城する諸将に命ずる朱印状。
 四三〜四五号文書からわかるように、陽智城の守将であった秀政は、部下を連れず番所へ敵情視察に出て待ち伏せに逢い、その時の負傷がもとで死亡した(なお、「中川氏年譜」(『中川史料集』)所収)は鷹狩りの折りとする)。秀吉はこれを聞いて秀政の軽率を怒り、本来なら跡目の相続は認められないが、「父(清秀)御用にまかり立ち討ち死にせしめ、忠節の者」であることをもって特別に秀成に相続を許したのであった。本状の「使者」とは、この秀政の頓死についての報告と弁明、および秀成への家督相続の嘆願のための使者であろう。
 ところで、本状の宛名から、当時釜山〜陽智間における諸将の在城状況が確認出来る。これと、三九号文書および『毛利家文書』所収の天正二〇年五月一六日付秀吉朱印状を対照してみると、在陣の場所については、梁山から尚州までは三九号文書の里程に掲げられた地点と一致しており、また数についても「新城二ヶ所」を一つとして扱えば、東莱から秀成が在陣する陽智までで一三ヶ所となり、これは五月一六日付朱印状で漢城での御座所をのぞいた数と同じである。また両文書での御座所の普請分担者と在陣者はほぼ重なり合っている(「岐阜衆」は、一六日付朱印状で一ヶ所の普請を分担した羽柴秀勝(美濃岐阜城主、天正二〇年九月九日陣中で没)の跡を襲った織田秀信(信長の孫、正室は秀勝娘か)配下であろう)。以上から、先に指示された秀吉の御座所は、少なくともそこに陣所となる城郭を築くという点ではほぼ計画通り設置されたと考えてよいだろう。なお、釜山浦に配置された早川長政は秀吉の馬廻で当時兵糧奉行を担当しており、加えて、百々綱家は織田秀信の家臣、三輪五右衛門は豊臣秀次の家臣であり、これ以後秀吉軍の上陸地点のみならず兵糧の補給基地ともなる当地が、豊臣政権の直轄地に近い形に置かれていたことがわかる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)