五三 (文禄二年)二月九日 豊臣秀吉朱印状

 文禄二年(一五九三)二月九日付けで、秀吉が第一次朝鮮侵略(文禄の役)に在陣中の中川秀成にあてた朱印状。
 天正二〇年(一五九二)四月の開戦以来、破竹の勢いで都・漢城を落として平壌・咸鏡道まで進軍した秀吉軍であったが、李舜臣ひきいる朝鮮水軍に全羅道沿岸の制海権を掌握されて海岸沿いの輸送物資補給ルートを失い、また義兵や農民達による抵抗を受けて、陸上輸送ルートの確保と現地での兵粮徴発も困難となった。かくして秀吉軍は、次第に物資補給に不調を来して兵粮欠乏の危機に迫られるようになり、事態の打開を図った晋州邑城攻撃にも失敗、結果その作戦の方向性を積極的な侵攻から防衛戦へと転換しつつあった(四二号文書解題参照)。このような状況は、侵略二年目に入った文禄二年一月、明軍の来襲をうけて平壌からの撤退と漢城以南への主力軍集結を余儀なくされる中、ますます悪化の度を深め、漢城や釜山〜漢城間の「つなぎの城」(連絡・補給路確保のための城)にある兵粮米は二ヶ月分のみという有様となっていた。
 秀吉自身、こうした状況を充分に把握しており、来る三月に自己の渡海を予定していたこともあって、既に前年終盤以降、奉行の長束正家・山中長俊らに命じて国内各地から名護屋・博多への米穀の集積をはかるとともに、海上輸送体系を再構築するなどの措置をとり、年末には、改年後に浅野長政を渡海させ、兵粮を釜山へ廻漕する旨前線に申し送っていた。そして、これが実行されるに至ったのが文禄二年二月で、秀吉は浅野を渡海させるにあたり、その趣旨を知らせる朱印状を在陣の諸大名に発給した。そのうち中川秀成に宛てたものが本状である。
 秀吉はまず第一条で、船が揃い次第渡海するので、朝鮮にある船はもちろん、各自の領地にある船も通達の上徴発し、確かな奉行を副え、浅野の奉行を加えて名護屋へ送るように、と指示する。そして第二条は、やや意味のとりにくいところもあるが、兵粮は多く蓄える程手柄であるが、とはいえ兵粮が無いのにあるように繕って下々を苦しめては不行届であるから、保有する兵粮の切れる日限と現状の士卒の数を調べて一札を出し、各自で兵粮を受け取るように、ということであろうと思われる。そして最後にまた、船が到来次第、自ら渡海して仕置を申しつけるので、油断無きように、と結んでいる。
 このように、本状では秀吉の渡海の意志が強く表明されていることが印象的であるが、同時に、やはり兵粮の配給が浅野の主要任務であったことが確認できる。第一条にしても、ここで名護屋への集結が命じられている船は、単に秀吉の渡海用ばかりでなく、兵粮の輸送にも用いられることが企図されていたと考える方が自然であり、これも兵粮の支給という任務と無関係ではあるまい。実際、朝鮮に上陸した浅野は、この後釜山に駐留して在陣の軍奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)のうち特に増田長盛とともに秀吉軍の兵粮支援を担当し、国内の長束・山中らとのラインで兵粮米の廻漕を図るとともに、現地での諸大名への配給を行うことになるのである。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)