五四 (文禄二年)二月九日 豊臣秀吉朱印状

 文禄二年(一五九三)二月九日付けで、秀吉が第一次朝鮮侵略(文禄の役)に在陣中の中川秀成他五名の大名にあてた朱印状。四六号文書の宛名から、この六名の大名たちは、当時釜山〜漢城間に設けられていた秀吉軍の「つなぎの城」(連絡・補給路確保のための城)のうち、漢城よりの八城(蜂須賀家政と生駒親正は二城)を守備していた諸将であることが確認出来る。
 本状は五三号文書と日付けが同じで、また「追而」という文言で始まることから、五三号文書に付属して発給されたものと考えられる。若干意味のとりにくい部分もあるが、釜山から海都(漢城)までの間のしかるべき所に、恒久的な城の普請を命じたものと解されている。
 秀吉がこのように命じた理由としては、一つにはこの年正月早々に李如松の指揮する明軍が南下して平壌を攻撃し、当地を守備していた小西行長率いる一番隊が退却、この報に接した平壌以南の守備隊が開城を経て漢城まで撤退するという戦況の悪化があった。これについて、在朝鮮の五人の軍奉行(増田長盛・大谷吉継・石田三成・加藤光泰・前野長泰)は正月二三日付けで肥前名護屋城の秀吉のもとに詳細な報告を送っているが、その中で奉行たちは、今後「つなぎの城」も明・朝鮮軍の反攻にさらされる恐れがあり、その場合漢城から援軍を送ることや「つなぎの城」同士連携することも困難であるとして、城々の普請を堅固にする必要を訴えている。この後、同月二六日の漢城北方碧蹄館の戦いで秀吉軍は明・朝鮮軍を迎撃して勝利するものの、釜山〜漢城ラインを死守するためにも、個々の「つなぎの城」の守備を強化することが急務となっていたのである。
 しかし、今ひとつ考慮せねばならないのは、やはり本状が在陣の諸将への兵粮支給を申し送った五三号文書と一体のものと推測されることであろう。同文書で兵粮支給について述べた第二条には、「各自で兵粮を受け取るように(兵粮手前/\にて請け取るべき事)」、とあった。すなわち、日本国内から朝鮮への兵粮の廻漕については、名護屋と釜山に在駐する秀吉の奉行たちが執り行うところであったが(五三号文書解題参照)、前線の各大名の部隊への配給にあたっては、釜山で大名側の責任で請け取ることとなっていたのである。そしてその後の各々の守城への輸送についても、各大名の部隊による「手くり」とされた(五五号文書解題参照)。このため、内陸部の補給線の強化・確保が必然となる。秀吉はおそらくこうした点をも配慮して、本状のような命令を送ったものであろう。本状の発給とあわせて、秀吉は軍の布陣の再編を行っているが、これも同様の目的をもった措置であると考えられる。
 このように、兵粮支給の強化を図りつつ、釜山〜漢城ラインを死守せんとした秀吉軍であったが、朝鮮義兵・民衆の抵抗、さらには明軍の攻撃は、これを許さなかった。結局、以後も秀吉軍の食料事情は悪化し続け、この年三月、これを見抜いた明軍の宋応昌によって漢城郊外の龍山にあった兵粮貯蔵所が焼き払われ、決定的な打撃を蒙る。こうした状況を受け、翌四月から秀吉軍はやむなく明との講和交渉を開始し、同月には漢城から釜山へと撤退してゆくことになるのである。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)