五五 (文禄二年)二月十八日 豊臣秀吉朱印状

 李舜臣ひきいる朝鮮水軍に全羅道沿岸の制海権を掌握され、また各地で義兵による抵抗を受けて陸上輸送ルートの確保もおぼつかなくなった秀吉軍は、物資補給の途を狭められて次第に兵粮欠乏の危機に迫られるようになる。このような事態は、侵略二年目を迎えた文禄二(一五九三)年一月、明軍の来襲をうけて平壌からの撤退を余儀なくされる中、ますます悪化の度を深め、都漢城にも一万四千石の備蓄しかなく、三月までしか持たない、という状況となっていた。
 本状は二月一八日、秀吉が中川秀成にあてた朱印状。これとほぼ同一のものが加藤清正宛・鍋島直茂宛など現存している。冒頭、「条々」を一書をもって宇喜多秀家に仰せ遣したので了解の上相談して落ち度なきようにせよ、とあるが、この「条々」とは、同日付けの秀吉朱印状一三ヶ条(『鍋島家文書』、『浅野家文書』に写。なお、後者は「高麗国在陣衆中」あて)をさす。この「条々」は、兵力の再編を含めた広範な内容となっているが、本状はその内終わりの三条のみを一文にまとめたものとなっている。
 秀吉は、こちらから兵を送って赤国(全羅道)・白国(慶尚道)を平定するつもりであるから、先手の布陣を確かにしてなくては心許ないのでこの命令を送ったのだ、とした上で、兵糧は釜山へ回漕してめいめいに下されるが、そこからの輸送については各部隊が「手くり」で行うよう求めている。そして最後に船について、厳しく詮索して一艘残らず奉行を副えて名護屋へ送るよう指示し、兵や兵粮を送るにも船が無ければ不可能であるので、間違いなく申しつけよ、と結んでいる。
 秀吉は兵粮の欠乏による戦況の悪化を充分に承知しており、本状にも見えるように来る三月に自己の渡海を予定していたこともあって、既に前年終盤以降、長束正家・山中長俊らを担当者として国内各地から名護屋・博多へ大量の米穀を集積し、海上輸送体系の再編を行うなどの措置をとり、年末には翌年正月早々廻漕する旨を前線に申し送っていた。これは実際には二月にずれこんだようであるが、秀吉は浅野長政を渡海させて在陣の増田長盛らを加えて兵粮奉行の職制を整備し、国内の長束・山中らとのラインで兵粮米の廻漕と釜山における配給を実行させた。浅野を送り込むにあたって発せられたのが五三号文書である。秀吉は、既にこの中で船の徴発や兵粮の配給について指示しているが、ここでは船の徴発については自己の渡海目的を強調しており、兵粮輸送と強く結びつけられているのが本状の特徴である。
 これで秀吉軍のネックであった兵粮補給の問題は解決したかに思われた。確かに、朝鮮への廻米は進み、釜山を始め朝鮮慶尚道の南岸には相当量の米が集積されたと考えられている。しかし、大きな落とし穴があった。それは、釜山での受け取り以後の内陸部の輸送が各部隊の「手くり」とされたことである。秀吉もこの点に配慮して、兵粮廻漕とともに、兵力の再編を行い、また釜山ー漢城間に在陣した秀成以下の諸将にしかるべき所に恒久的な城を普請するよう命じる(五四号文書)など、内陸部の補給線の確保を目指した。しかし、前年の普州攻防戦以降の朝鮮義兵・官兵の抵抗、さらには明軍の参戦は、これを許さなかった。結局、以後も秀吉軍の食料事情は悪化し続け、この年四月には首都漢城にいた主力は南方への撤退を余儀なくされることになる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)