五九 (文禄二年)七月六日 豊臣秀吉朱印状

 文禄二(一五九三)年五月、朝鮮在陣中の豊後四〇万石の当主・大友吉統は、この年正月の平壌の戦い(平壌城を占領する小西行長らの秀吉軍を、四万三千余の明軍が襲ったもの)での守城鳳山城放棄・退却や天正一四(一五八六)年の薩豊戦争時の豊前敗走などを理由に、秀吉から「勘当状」を突きつけられ、改易された。
 本状はその二ヶ月のちの七月六日付で、豊後の隣国・肥後を領する加藤清正・小西行長の留守居(加藤・小西は朝鮮在陣中)に宛てられた秀吉の朱印状。
 この中で秀吉は、「先年乱入の刻」に豊後国の男女が「或いは買い取り、或いは押し取」られ、肥後にいるということなので、調査の上豊後に返すよう指示している。また、逆に肥後の者が豊後にいれば、肥後に呼び返すようにとも申し送っている。実は、加藤と小西に対しては、年未詳(天正二〇年以前)八月二日にも、豊後国の百姓やその他上下を限らぬ男女や童が近年売買されて肥後に連れてこられているので、元の国に返せ、と命ずる秀吉の朱印状が発せられており(「下川文書」、『熊本県史料』中世篇第五)、さらにこの時には筑後を領する立花宗茂・小早川秀包にも、同内容で「肥後」を「筑後」とする朱印状が発せられているのである(「立花家文書」、『福岡県史 近世史料編』柳川藩初期(上))。
 ここで、「先年乱入の刻」とは、直接的には、冒頭に挙げた天正一四年の薩豊戦争を指す。この時、薩摩島津氏は豊後国内に侵攻して領内を蹂躙し、事実上大友領国を壊滅に追い込んでいた。この折り、島津軍が人や物の掠奪(乱取り)や暴行・放火などの残虐の限りをつくし、加えてここで連れ去られた婦女子を中心とした人々が肥後や肥前の島原半島で売買されたことは、ポルトガル人宣教師、フロイスが克明に記録するところである(『フロイス日本史』八、豊後編V)。しかし、彼はこうした残虐行為が、大友氏を救援し、島津軍を討つべく送り込まれた秀吉軍や、また吉統改易後に入部した豊後接収の秀吉軍によっても行われたことを記しているから、実際はこの時に買い取られ、連れ去られた人々も含まれているだろう。
 豊後の人々は、このように、島津氏の乱入、秀吉軍の制圧、大友氏改易と間断なく続く激動の中、まさに地獄のような絶望的状況のもとに置かれていた。本状は、戦国の戦場に起こっていた恐るべき事実を物語る貴重な史料といえる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)