六 天正十二年九月八日 羽柴秀吉陣定

 天正一二年(一五八四)、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の間で戦われた小牧・長久手の戦いの最中、秀吉が発令した陣備えの定。本状が出される前日の九月七日、両軍の間で進められていた和平交渉が決裂しており、戦闘の再開を見越して発せられたものであろう。
 中川秀政はこの戦いに当たって秀吉が発した陣立書(特定の合戦を想定し、自己の軍勢の配置を示した文書。制定者の花押または印章を据えて各武将に発給された)の中に三千五百(あるいは三千)の軍役とともにその名「藤兵衛尉」が見える。
 全体に文意はとりがたいが、第一条は敵が陣に陽動作戦をかけてきてもその挑発に乗らぬこと、第二条は敵陣への作戦遂行に当たっては秀吉が現地で直接指示を下すこと、第三条は馬乗(騎兵)は二十騎・三十騎交代で出勤し苅田(田畑の作物を荒らすこと。当時の戦場において敵の兵粮を奪うとともに、敵地の村々を脅かし味方につけるための作戦として重視された)を行うが、敵陣に近寄らないよう統制をしっかりすること、といった内容であろうか。ちなみにこの小牧・長久手の戦いで始めて先の陣立書が作成されたといわれるが、本状のような陣備えの定が発給されたこともこれと関わるものか。
 また、本定は、この法度に少しでも違反するものは、「八幡大菩薩中」をたがう、すなわち八幡神に背くことになる、と結ばれ、陣定としては非常に珍しい形式のものとなっている。あるいは秀吉は本状の発給にあたり、各武将から定の遵守を八幡神(など)に誓う起請文(神仏へ誓う形で相手に自分の行為・言説にうそいつわりのないことを誓約する文書。九三号文書(写)・九六号文書参照)を取ったのかもしれない。なお、本定とほぼ同文言のものが『大日本史料』第十一編之八、天正十二年九月七日条に「富田仙助氏所蔵文書」として収載されているが、そこではこの部分は「八幡大菩薩、秀吉中」となっている。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)