六〇 文禄二年閏九月十三日 豊臣秀吉領知朱印状

 文禄二(一五九三)年五月の大友吉統改易後、秀吉は加賀大聖寺城主山口宗永(正弘)と因幡鳥取城主宮部継潤に命じて豊後国内の検地を行い、そこで把握された八郡計四二万石を蔵入地(秀吉の直轄地)とし、郡単位に代官を置いて管理させた。同年一一月、中川秀成に豊後国直入郡・大野郡六万六千石の知行宛行状と転封命令が下されるが(六二・六一号文書)、本状はそれに先立つ閏九月四日付で、大友氏の旧臣田原近江入道(紹忍)に下された領知朱印状。直入郡直入郷松本名(現、竹田市・直入郡荻町)と柏原名(現、直入郡荻町)の内で二三村二千九百石余が与えられた。本状によれば、山口・宮部による「太閤検地」はこの頃までには終わっていた、ということになる。
 田原紹忍は大友義鑑・義鎮(宗麟)の二代にわたって社奉行を勤めた奈多鑑基の子。実名は親賢。同じく鑑基の子には義鎮の室となった女があり、紹忍は義鎮と義兄弟にあたる。大友氏の有力一族田原氏の庶流で国東郡武蔵今市城主であった田原親資の養嗣子となり、義鎮の義兄弟、また義鎮息義(吉)統の伯叔父として、二代の間加判衆(大友氏の領国経営に中枢的機能を果たす上級家臣)を勤めるなど、領国経営に辣腕をふるった有力家臣であった。秀吉は中川秀成の豊後入部にあたり、かかる経歴を持つ紹忍を秀成に与力(付属の武将)として配置してその領国支配と軍事力の補佐にあてるべく、前もってこのような領知宛行を行ったのであろう。なお、「中川氏年譜」(『中川史料集』所収)によれば、この折り秀吉は同じく大友氏旧臣の宗像掃部(鎮続)にも直入郡葎原郷(現、荻町)において千八百五十石余を宛行い、秀成の与力としたとされる。
 なお、こののち紹忍は、慶長五(一六〇〇)年九月、関ヶ原合戦の際西軍に与して豊後国速見郡立石村(現、大分県別府市)で挙兵した吉統に宗像掃部とともに従ったが、立石・石垣原(同)合戦で、丹後宮津細川氏の豊後木付城代松井康之・有吉立行軍と豊前中津城主黒田如水の送った援軍からなる東軍方の軍勢に破れ、中川氏に帰陣。中川氏による西軍方の臼杵城主太田一吉攻めに加わったが、進軍中佐賀関で戦死したとされる。慶長六年に徳川氏から秀成に与えられた知行目録(九八号文書)の中に直入郡柏原郷・松本郷が見え、その各々の石高は本状の石高と一致するので、彼の旧領は、立石・石垣原合戦で戦死した宗像のそれとともに(知行目録に葎原郷千八百五十石余が見える)、中川氏の所領に組み込まれたと考えられる。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)