六一 (文禄二年)十一月十九日 豊臣秀吉朱印状

 中川秀成に対し、来春豊後に遣わすので、家来を悉く召し連れて罷り越せ、もし逃亡する者がいれば追って成敗する、と命じた秀吉の朱印状。年号はないが、秀成に豊後六万六千石を宛行った領知朱印状(六二号文書)に添えて、文禄二年(一五九三)一一月一九日に出されたもの。
 「中川氏年譜」(『中川史料集』所収)によれば、これを受けて秀成は、翌文禄三年一月二五日に居城であった播磨三木城(現、兵庫県三木市)を引き払い、総勢四千余人の家中を引き連れ、大船五〇艘で播磨坂越(現、兵庫県赤穂市)から豊後へ渡った。そして二月八日に豊後速見郡小浦(現、大分県速見郡日出町)に到着、一三日に陣列を組んで岡(現、大分県竹田市)に入部したが、その際赤岩谷(現、竹田市)で旧領主大友氏の浪人三・四百人が陣列を妨害、その内の一部は敵対の様子を見せたため、八四人をその場で討ち取って翌日梟首し、生け捕った一七人も同日磔に処す、という事件が起こっている。
 この事件は、中川氏と領内に残る大友旧臣たちとの融和の難しさを示していたようで、入部から六年を経た慶長五年(一六〇〇)に至っても、隣国豊前中津(現、大分県中津市)の黒田孝高(如水)から、「其元の儀は一揆多き所」と指摘されることになる(九一号文書参照)。ここでいう一揆とは、大友氏の旧臣であった国人・土豪を主体とする一揆のことであろう。そしてこの問題は、関ヶ原合戦に伴って豊後で起こった戦争において、中川氏を存亡の危機に陥れる要因となるのである(九五〜九七号文書解題参照)。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)