六二 文禄二年十一月十九日 豊臣秀吉朱印状

 文禄二(一五九三)年五月の大友吉統改易後、秀吉は加賀大聖寺城主山口宗永(正弘)と因幡鳥取城主宮部継潤に命じて豊後国内の検地を行い、そこで把握された八郡計四二万石を蔵入地(秀吉の直轄地)とし、郡単位に代官を置いて管理させた。
 その後、直入郡の内二万九千三十八石と大野郡の内三万六千九百六十二石、あわせて六万六千石が播磨三木城主中川秀成に宛行われることとなった。本状はそれを命ずる秀吉の朱印状であり、うち一万六千石については、軍役賦課の対象外として無役すなわち台所入分(領国経営に使うことの出来る分)とされている。
 直入郡と大野郡は一般に「南郡」とよばれるが、天正一四年の島津氏豊後侵攻の際、この地にあった志賀・入田・戸次氏などの大友氏有力家臣の多くは島津氏に内応・降伏してその侵入を助けており、結果として「南郡」は島津軍による被害(五九号文書参照)が他の地域よりも比較的軽微であったと考えられる。秀成への宛行に関してはこの点も考慮されたのかもしれない。
 なお、先の検地で打ち出された石高は、直入郡は三万二千九百八十石余、大野郡は五万三千二百一石余であり、両郡ともに全体が秀成に与えられた訳ではなかった。残りのうち、直入郡直入郷松本名・柏原名、及び同郡葎原郷が秀成の与力として付属された大友氏旧臣田原紹忍・宗像掃部に宛行われた(六〇号文書参照)他は、豊臣氏蔵入地として維持されたとみられ、直入郡の分(同郡田北郷一帯)は以前からの代官熊谷直盛が管理したのち文禄三(四年とも)に中川氏の預かり地となり、大野郡の分も当初の代官であった太田一吉が、文禄三年春に隣接する海部郡臼杵城三万五千石の大名となったのちもそのまま代官の任に当たったと考えられている。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)