六九 (文禄三年)二月十九日 長束正家書状

 文禄三(一五九四)年二月一九日、のちに豊臣政権のいわゆる「五奉行」の一人として知られ、蔵入地の管理を始めとする財政面に力をふるった長束正家が、大野郡の蔵入地の代官を勤めた太田一吉(六二号文書参照)に送った書状。
 中川秀成が豊後に移封を命ぜられるにあたって、大野郡のうちに知行が与えられました。ところが百姓の種子や食料として雑穀を貸し付けるよう、三人の者が手紙を送ってきたので、その趣旨を理解して、あなたのお手持ちの分から、百姓と秀成殿からの依頼分だけお貸し付け下さい、御近所ですので、秀成殿のことを是非ともよろしくお頼み致します。このことは聚楽で(=関白秀次と)相談しました。(秀成は、豊前へ)初めての入部なので、出来るだけうまく落ち着くようにしたいと思います…。
 秀成入部前の豊後は、天正一四(一五八六)年の島津氏侵攻、秀吉軍による制圧、文禄二年の大友吉統の改易による混乱、と度重なる戦乱にさらされ、その中で多数の人々が他国へ売られたり連行されたりしていたが(五九号文書)、加えて戦争に伴う疫病や飢餓が彼らを襲い(『フロイス日本史』八、豊後編V)、戦闘行為そのものによる被害もあわせ、命を落とす者も数え切れなかった。さらに、朝鮮の役中の各種の負担転嫁に苦しむ百姓の逃亡が加わり、当時の豊後は領民の死亡・離散・逃亡によって荒廃の極みにあった。前年の検地によって作成された検地帳を見ると、村によっては荒地率が四〇〜五〇%、百姓のうちの失人(逃亡などによる行方不明者)の比率が三〇〜四〇%に及ぶ所が存在していることがわかる。また同年、薩摩島津氏、日向伊東氏、筑後筑紫氏、伊予来島氏、長門佐世氏などにほぼ同文で、逃亡した豊後百姓の「還住」(もと住んでいたところに帰り住むこと)のための送還を命ずる秀吉の朱印状が出されていることも知られている。
 長束の指示は、まずはこうした状況をふまえ、中川領の経営をうまく軌道にのせるために、隣接の蔵入地代官に協力を要請したものであろう。しかし同時にこの指示が「百姓」からの要請に基づいていることが注目される。この前年、当地の検地にあたった山口宗永(正弘)は、それに先んじて作付けに関する命令を出し、百姓の還住を命ずるとともに、田作が不可能であれば雑穀でもよい、作付けの間は債権とりたてを禁ずる、などとして「来年まん作」のための環境整備を図っているが、その中で、七月に入って作付けが終了したら、「庄屋・年寄、此の二人」に限り「異見」の具申を認めるとしている(「高橋文書」、『大分県史料』第二五巻)。また彼は大分郡戸次郷利光村の「肝煎」高橋右近に逃亡百姓を還住させて作付けに精を出させよ、と命じている(「高橋文書」)。本状で、雑穀の貸し付けを求めてきた「百姓」とはこうした「庄屋」「年寄」「肝煎」のような存在であろう。当時の豊臣政権は、こうした「百姓」の要請をうけつつ、個別領主の存立という枠組を超えて、疲弊した農村の復活を目指していたのである。
 なお、右のように考えれば、太閤秀吉側近の吏僚である長束が、関白秀次と相談した上で、としていることも興味深い。すなわち、秀成への所領宛行自体は秀吉の朱印状で行われた(六二号文書)一方で、その実務には秀次が関与しているということになる。関白秀次・太閤秀吉の関係については最近新たな視点からの見直しの議論がなされるに至っているが、本状もそうした議論の展開にあたっての一つの材料となろう。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)