七 (年未詳)十一月十五日 羽柴秀吉書状

 天正一一(一五八三)年四月、賤ヶ岳合戦で柴田勝家を敗って信長の後継者としての地位を確立した秀吉は、八月二八日に大坂の地にその本拠となる城と城下町の建設を開始する。工事には月二〜五万人もの労働力が動員され、約四〇日間で七千もの町屋が城下に建設されたとも伝えられるほどの驚異的なスピードで進められた。本状は、この年の一一月に発信されたと考えられるもので、秀吉は中川藤兵衛(秀政)に対し、「中嶋」の普請(土木工事)を早々に完成させた労をねぎらい、喜びを語っている。
 この「中嶋」は当時渡辺の在所とも呼ばれた地で、大坂城と淀川をはさんだ北側に位置し、現在の天満一体にあたる(大阪市北区)。この時の普請の内容は、もと農地であったこの地を寺町および市街地に転換する工事であったと推定され、実際、天満の東寺町の東端と西端にあたる専念寺と九品寺(後者はのち移転)は、ともに天正一一年の開基と伝えられている。そしてこの東西にのびる東寺町と淀川の間には東西五町・南北七町もの広大な市街地が造成された筈であるが、天正一三年五月、貝塚の本願寺が移転してくるまで利用された形跡はない。この一年半近くの空白の意味については、この時期、秀吉が京都から大坂への「遷都計画」を抱いていたことの関連が指摘されている。秀吉は、朝廷を大坂に迎え入れた上で自らは将軍となって「大坂幕府」の開設を目指しており、この中嶋の新開発地は内裏と公家屋敷、さらに内裏に奉仕して特権を得ていた禁裏六丁町などの商工業者の屋敷地、五山その他の寺院の移転予定地であったと考えられるという。
 しかし、この当時の秀吉にはまだこのような計画を実現させるだけの力はなく、朝廷の拒否にあってこの都の移転による「大坂幕府」構想は挫折し、歴史の表面にあらわれることはなかった。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)