七三 (文禄四年)九月十六日 豊臣秀吉朱印状

 文禄四(一五九五)年九月、秀吉が中川秀成に与えた朱印状。
 豊後国内の鶴・白鳥・雁・鴨その他の鳥を去年のように鉄砲で討つか、あるいは猟師などに申しつけて(捕らえさせ)、献上せよ、と命じたもので、秀吉は、他所でこのようにすれば、(畿内の)秀吉の御鷹場に鳥たちが集まって来(て獲物不足が解消され)るので、精をいれよ、と述べている。
 これ一点だけでも秀吉の専制君主ぶりがよくわかる呆れた命令であるが、実は秀吉は、文中「去年のように…」とあるように前年九月にもほぼ同内容の命令を発しており(『島津家文書』など。なお、この年のものは『中川家文書』には見あたらない)、さらには、同一の日付で、本状と国名の部分を除けばほぼ同一の文言を持った朱印状を、福島正則(尾張清洲城主)・加藤嘉明(伊予松前城主)・立花宗茂(筑後柳川城主)・筑紫広門(筑後福島城主)・松浦鎮信(肥前平戸城主)留守居・加藤清正(肥後熊本城主)留守居・伊東祐兵(日向飫肥城主)・秋月種長(日向高鍋城主)・島津豊久(日向佐土原城主)・島津義久(薩摩鹿児島城主)・島津義弘(大隅栗野城主)・秋田実季(出羽湊城主)・南部信直(陸奥九戸城主)に宛てて発しており(『豊臣秀吉文書目録』による)、彼がこの構想を「現実的」なものと考えていたことがわかる。
 秀吉は天下人となった頃から鷹の飼育や鷹狩に力を入れるようになり、良鷹の巣地である東北や九州の大名たちに命じて逸物の鷹を進上させたりしている。のみならず、天正一九(一五九一)年一二月、美濃・尾張・三河地方で行われた著名な「大鷹野」の帰洛行列が、絢爛豪華な趣向を凝らし、天皇・上皇・公家衆などの出迎えと饗宴を伴ったものであったことからもわかるように、彼にとって鷹狩は、天下人としての権力・権威を誇示する一大イベントでもあった。本状の背後に、そうした秀吉一流の政略的示威性を見て取ることもできよう。また、文書の残存の問題はあるが、命令の発給先に地域的かたよりが見られることに、なんらかの含意が存在するかもしれない。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)