七四 慶長二年二月廿一日 豊臣秀吉高麗陣陣立書写

 天正二〇年(一五九二)四月に始められた豊臣秀吉の第一次朝鮮侵略(文禄の役)は、開戦直後こそ破竹の勢いで都・漢城を落として平壌・咸鏡道まで進軍したものの、そののちは李舜臣ひきいる朝鮮水軍の反攻や各地の義兵による抵抗、さらには明軍の来援によって戦線を維持するのがやっとという有様となった。とりわけ、水軍による全羅道沿岸の制海権掌握と義兵のゲリラ活動は、秀吉軍の海・陸の補給ルートを狭め、また現地での兵粮徴発を困難としたから、秀吉軍は朝鮮半島の酷寒の中で慢性的な兵粮欠乏に悩まされるようになり、戦闘能力は低下し、士気も衰えていった。このような状況は、侵略二年目に入った文禄二年(一五九三)一月、明軍の来襲をうけて平壌からの撤退と漢城以南への主力軍集結を余儀なくされる中、ますます悪化の度を深めていき、秀吉が取った兵粮供給強化策も機能しなかった(五四号文書・五五号文書解題参照)。そしてこれを見抜いた明軍の宋応昌は、三月、漢城郊外の龍山にあった秀吉軍の兵粮貯蔵所を焼き払い、決定的な打撃を与えたのである。
 こうした状況を受け、同年四月、秀吉軍はやむなく明との講和交渉を開始する。しかし同年五月に肥前名護屋城を訪れた明使に対して、秀吉が提示した七ヶ条の講和条件は、明の皇女を天皇の妃とすること、朝鮮南四道の割譲など、一方的な内容のものであった。もとよりこれは明・朝鮮側に受け入れられるものではなかったが、直接交渉に当たっていた小西行長と沈惟敬の裏取引によって、文禄五年九月に明使が来日する。秀吉は大坂城で彼らを謁見し、饗宴を催したが、その後になって明の国書の内容が、明皇帝が秀吉を日本国王に冊封するというものであることが発覚、事の次第を知った秀吉は激怒して明使を追い返し、翌慶長二年(一五九七)早々、再度の出兵を宣言する。第二次朝鮮侵略、いわゆる慶長の役の開始である。
 本状は、これにあたって二月二一日付けで諸大名に発給された総勢一四万人余に及ぶ陣立書(特定の合戦を想定し、自己の軍勢の配置を示した文書。制定者の花押または印章を据えて各武将に発給された)の写し。正文と比較すると、若干の写し間違いや脱落(例えば、最下段には本来、「寺沢志摩守」の名がある)はあるものの、形式・内容ともにほぼ正確な写しであることが確認できる。中川秀成(中川修理大夫)の名は、五段目に「六番」として羽柴土佐侍従(長宗我部元親)・藤堂佐渡守(高虎)などと並んで見え、軍役は千五百人。なお、この陣立書は「先手は加藤清正と小西行長がくじ引きの上、二日交代で勤めよ」に始まり、「明軍が出陣してきた時には秀吉みずから”一騎駆け”に渡海し、即時に討ち果たす」との決意で結ぶ、長文の軍令状とセットになって数多く現存しているところから、この二通のセットが動員された大名それぞれに出されたものと考えられている。
 本状の正文は、やはり軍令状とセットになって、現在大阪城天守閣の所蔵となっている。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)