七七 (慶長二年)十一月廿九日 豊臣秀吉朱印状

 「この度朝鮮人を捕虜とした中に、技術者や縫官(裁縫の技術者の意か)、手先が器用な女がいたら、御用に召し使うので、進上せよ。家中も改めてよこすように」と中川修理大夫(秀成)に命ずる秀吉の朱印状。一一月二九日付け。秀吉の朝鮮侵略に関わるものであることは間違いないが、年代は確定されていない。ただ、中川秀成が修理大夫に任官するのは文禄三年(一五九四)二月から五月の間で、また秀吉は慶長三年(一五九八)八月に没しているから、文禄三年から慶長二年の間のものということになる。
 現在、本状と同じ日付でほぼ同一の文言をもった朱印状が一〇通あまりも確認されており、秀吉は朝鮮侵略に従軍した諸大名にむけて一斉にこの命令を発したものと推定される。そして、実際にこれを受けて縫官を差し出したことに対する秀吉の礼状も残されており、命令が実行されていたことも確認できる。
 このような命令が出されたことの背景には、文中に「家中も改めて」と見えるように、侵略戦争に参戦した諸大名の家中の兵士たちが、侵攻した各地で朝鮮の人々の食糧や金銀財宝を掠奪したのみならず、多数の人身を拉致して日本へと連れ帰ったことがあった。この人身拉致と日本への移送には、軍隊に帯同して渡海した、多数の人買い商人も介在していたらしく、当時日本で布教活動をしていたあるイエズス会の宣教師は、「日本人は計り知れぬ程の朝鮮人を捕虜にし、彼らを日本に連れ戻った後、捨値で売り払った」と記している。そしてこの人身の拉致=”奴隷狩り”は、とくに朝鮮南部の諸州に集中し、第一次侵略(文禄の役)よりも第二次侵略(慶長の役)の方が一〇倍もの惨状を呈したという。ちなみに、江戸時代中川氏に仕えた曽我家の始祖・曽我清官は、曽清官という朝鮮軍の部将の子で、慶長の役の際秀成軍の兵士に捕らえられたのを、秀成が庇護して連れ帰り、姓を与えて小姓に取り立てたとされる。中川氏の家中もやはりかかる行為と無縁ではなかったことが知れよう。
 この、秀吉軍の兵士たちが行った戦場の”奴隷狩り”とは、秀成の所領のあった豊後でも、大友氏時代の薩豊戦争の際、その被害を被ったことからもわかるように(五九号文書解題参照)、実は、戦国時代、国内各地の戦場で見られた行為そのものであり、まさにその「輸出」に他ならなかった。秀吉自身、朝鮮でのこのような行為の発生を見越していたようで、天正二〇年(一五九二)四月の開戦にあたって諸大名に発給した「高麗国(朝鮮)」宛ての禁制には、「今度乱入の刻、人捕り仕り候わば、男女によらず、その在所々々へ返付すべし」という一条が含まれていた。しかし秀吉は、本状ではそれを忘れたかのように、「人捕り」の上前をはねようとしているのである。秀吉軍による、朝鮮の人々を対象とした”奴隷狩り”は、秀吉から末端の兵卒にいたるまで、まさに国ぐるみのものであった。
 なお、ここでは、特に縫製技術者が求められているが、「技術者」の中には、当時朝鮮が進んだ技術を持っていた製陶に関わる技術者=陶工もいたであろう。古伊万里焼や薩摩焼、平戸焼、有田焼などがこうして日本に連行された朝鮮の陶工によって始められ、あるいはその名が知られるようになったことは、よく知られるところである。豊後にも、かつて「波越焼」(なんごうやき)という焼物があり、これは慶長五年に佐伯城主になった毛利高政が、朝鮮から連れ帰った陶工に焼かせたものという。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)