八 (天正十二年)十一月廿日 羽柴秀吉朱印状

 西国から毛利輝元の息女が祝言すなわち婚礼のため上洛し、郡山に一泊するので、賄方(費用)はこちらから申しつけるから、宿舎の手配をせよ、と中川秀政に命じた秀吉の朱印状。
 天正一二年(一五八四)一二月二六日、織田信長の四男で秀吉の養子となっていた秀勝(御次秀勝、丹波亀山城主)と毛利輝元の娘との婚儀が大坂城でとり行われているから、本状はこれに備えて輝元の娘が上洛した際のものであろう。
 なお、文中の「郡山」は、中世以来、西は瀬川(現、大阪府箕面市)から西宮(現、兵庫県西宮市)、東は芥川(現、大阪府高槻市)を経て山崎(現、大阪府三島郡島本町・京都府大山崎町)に至る山陽道上の交通の要地で、近世には西国街道の宿駅である郡山宿が設けられた地である(現、茨木市内)。当時中川秀政の居城であった茨木城にほど近く、中川氏の所領内であったと考えられる。
 また、文末に蜂須賀彦右衛門尉(正勝)と黒田官兵衛(孝高)が申すべし、とあってこの両者が婚礼の差配を行っていたことがわかるが、この両者は当時毛利氏の秀吉への「取次」(仲介役)に当たっていたことが明らかにされている。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)