八六 (慶長五年)七月十七日 前田玄以・増田長盛・長束正家連署状

 慶長三年(一五九八)八月一八日、天下人豊臣秀吉は伏見城に没した。秀吉はその晩年、幼い息子・秀頼を補佐するため、いわゆる五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)・五奉行(浅野長政・石田三成・長束正家・増田長盛・前田玄以)の制を設け、その合議によって諸政策の決定・執行をなさしめることとし、もって豊臣政権の存続を図った。しかし、秀吉の期待もむなしく、彼の死の前後から、豊臣家内部の跡目争いや家臣団内部の吏僚派と武功派の確執、五大老・五奉行の間での主導権闘争といった政権内の諸矛盾が露呈し始める。そしてその中で着々と政権奪取の動きを進めていったのが徳川家康である。
 慶長五年、家康は、前年九月に所領・会津に戻り、度々の上洛催促にも応じない五大老の一人上杉景勝を謀叛の嫌疑ありとして討伐することを決意。六月一六日、自ら総大将となって徳川将士に豊臣系大名を加えた大軍を率いて大坂を出発した。そしてこの間隙をついて石田三成が挙兵、ここに関ヶ原合戦にむけての軍事的展開がスタートすることになるのである。三成はまず七月二日、会津遠征のため出陣してきた旧友大谷吉継を居城佐和山城へ迎え、はじめて家康討滅計画をうち明ける。そして同一二日にはこの両名に増田長盛・安国寺恵瓊を加えた四人で作戦を練り、五大老の一人毛利輝元を盟主として担ぐことを決定。同日付の書状を受け取った輝元は一五日には早速乗船して本拠広島を発し、一七日には大坂城西の丸に入った。
 本状は、この一七日付で、五奉行のうち三人(前田玄以・増田長盛・長束正家)が中川秀成に宛てた書状。三奉行は、家康が上巻の誓紙(起請文)と太閤秀吉の御置目(掟・制法)に背き、秀頼を見捨てて出馬したため、皆で相談して挙兵に及んだとし、「内府公(家康)御違の条々別紙にあい見え」るとしている。この家康の違反の数々をあげつらった別紙とは、慶長五年七月一七日付の「内府ちかひの条々」と題される、一三か条にわたる家康弾劾状のことを指す。本状と同じ日付で同内容の八七号文書と同一の文言を持つ書状が各地でこの弾劾状とともに残されていること(『徳川家康文書の研究』)、また八九号文書に、「去る十七日、折紙(本状あるいは八七号文書を指す)ならびに一書を以て申し入れ候」とあることから、本状(または八七号文書)はその添え状として発せられたものと思われるが、現在『中川家文書』にはこの弾劾状そのものは残されていない。
 書状は軍勢を率いて早々に上坂するように、と結ばれており、軍事的衝突を控えた緊迫した雰囲気が漂っている。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)