八八 (慶長五年)七月廿四日 松井康之書状

 慶長五年(一六〇〇)七月二四日付で、丹後宮津城主細川忠興の家老松井康之が中川秀成に宛てた書状。冒頭に一昨日二二日の手紙を今日受け取り拝見した、とあるので、これは秀成が出した書状の返信にあたる。当時松井は同じく家老の有吉立行とともに、忠興が豊後国内に飛地として有した所領を管すべく、木付城(現、大分県杵築市)に在城していた。
 この細川家領木付六万石や秀成の所領岡六万六千石がある豊後の地は、大友義統の改易の後一旦全体が豊臣蔵入地化した故もあってか、その後も蔵入地が多く残り、また中川氏以後配置された大名も、毛利高政(隈)・竹中重利(高田)・垣見一直(富来)・早川長政(府内)・熊谷直盛(安岐)・太田一吉(臼杵)・福原直成(荷揚、慶長四年改易)といった、もと蔵入地の代官を勤めた者を含む、いわゆる「吏僚」派の者達が殆どであった。彼らは、三成の妹婿であった福原直成は勿論のこと、他の者達も殆どが立場の近い大坂方についており、かかる中、細川家(松井・有吉)と中川秀成は数少ない家康方であった。
 松井は秀成が二〇日に下国したことを悦び、また在国してくれれば大慶この上ない、万事心添えをしてほしい、と述べる。そしてすでに上方の動静についての情報を中川平右衛門に申し入れた、それ以後入手した情報も同様だ、として、「毛利殿・御奉行衆仰せ合わされ、内府様(徳川家康)へ御謀叛」と断じており、毛利輝元が大坂城に入った一七日から一週間とせぬうちに、大坂方の動向が正確に九州の地にも伝わっていることがわかる。なお、中川平右衛門は五号文書の知行配分目録に秀成(当時石千世)と並んで名の見えた、秀政以来の重臣で、在大坂の秀成に代わって岡城の守りにあたっていたのだろう。
 さらに松井は、伏見城は鳥居彦右衛門(元忠)が堅固に守っていること、大津宰相(京極高次)は家康に対して別心はないことを知らせている。伏見城は家康の上方での根拠地であり、家康は会津の上杉景勝討伐出陣にあたり、守将として鳥居元忠を置いていた。大坂方は挙兵間もない七月一九日に、宇喜多・島津・小早川氏など軍勢をもってこれを包囲したのである。また、大津六万石の城主・京極高次は、正室お初(のち常高院)が淀殿の妹で、妹竜子が秀吉の側室(松の丸殿)という豊臣家と深い閨閥関係にある大名であったが、早くから家康とよしみを通じていたようで、家康は景勝討伐のための東下の途上大津城を訪れ、高次と大坂で変事あったときの対応を密談している。よって高次は大坂方の挙兵にあたっては微妙な立場にあり、その動向が注目されていたと思われるが、徳川方は味方に対して高次に異心ないという情報を流し、無用の動揺を抑えんとしたのだろう。
 最後に松井は、何か新しい情報があれば聞かせてほしい、こちらからも申し入れる、と結んでいる。関ヶ原決戦を前にした大名家の間の情報のやりとりの模様が窺える史料。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)