八九 (慶長五年)七月廿六日 前田玄以・増田長盛・長束正家連署状

 八六・八七号文書と同じく、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行が秀成に宛てた書状。慶長五年(一六〇〇)七月二六日付。
 三奉行はまず、再び家康の非義を非難し、もって毛利輝元・宇喜多秀家・島津義弘と相談して秀頼のために挙兵したと述べ、秀成に対しても秀吉の恩顧を強調して秀頼への忠節を説く。そして続いて、上方周辺の軍事情勢について詳細に述べる。すなわち、美濃では織田秀信(岐阜城主)・稲葉貞通(八幡城主)・大垣(伊藤盛正)・犬山(石川貞清)すべて秀頼に忠節を誓い、人質を差し出したこと。また伊勢では桑名城の氏家行広のもとに原勝胤(美濃大田城主)を加勢に遣わし、亀山城の岡本(宗憲)は人質を送ってきたので加勢として池田秀氏と横浜茂勝を派遣、さらには神戸城の滝川雄利も大坂方として在城し、津城・松坂城・岩手城にも大坂方の軍勢を入れ、伊勢は大坂方が制圧したこと。さらに毛利輝元の軍勢二万余が近江瀬田・守山の間に陣取り、宇喜多秀家と小早川秀秋は醍醐・山科・大津へ陣取ったこと。これらの地はいずれも畿内へと至る東海道上の要衝である。
 ここで述べられている情勢については、美濃と北伊勢にあたる桑名城・亀山城・神戸城の諸将は確かにいずれも大坂方となっていることが確認できるが、南伊勢の津・松坂・岩手(岩出)については城主富田信高・古田重然・稲葉道通はいずれも徳川方として家康の会津攻めに加わっており、七月二五日に家康が下野小山(現、栃木県小山市)に諸将を召集して大坂方の挙兵に関する評定を行った、いわゆる「小山の評定」ののちに居城に戻って大坂方を迎え撃っていることがわかるから、この時点で伊勢全域を制圧したかのような表現は明らかに誇張である。また毛利・宇喜多・小早川の中国勢による東海道の要衝布陣も、九一号文書に「中国衆」が瀬田に城を拵えているとの情報が見えるから、ある程度は事実と思われるが、本状が出された時点ではこの三者の軍勢が伏見城包囲戦の最中であった(落城は八月一日)ことから、ここまで軍勢を配置できたかは疑わしい。よってここでの情勢報告は、大坂方優位を強調して秀成を自陣営に引き込むための宣伝の色が濃いのではなかろうか。
 そして続いて、大坂城内の大小名の人質を解放し、その上で妻子には番を申しつけたことを述べている。大坂方は挙兵直後から、家康とともに会津討伐に出陣した諸将の妻子を大坂城の中に収めて人質となし、もって諸将を自陣営へ引き寄せようとした。ところが七月一七日、収監を拒否して当主忠興の妻ガラシアを始め、屋敷詰めの家臣らが皆命を絶った、著名な細川家の一件が発生、これ以後大坂方も収監を見合わせ、各大名の屋敷の周囲を柵をもって囲み、監視するにとどめるようになる。この一文は上の事実を示しているが、これを書き添えたのは、やはり大坂の屋敷に「母子并女共」(九三号文書)を置いていた秀成への「脅し」であろう。
 最後に三奉行は、秀成に対し留守居を申しつけて軍勢を引き連れ、早々上坂するよう依頼して書状を結んでいる。なお、大坂方の石田三成が八月五日付で、信濃の真田昌幸父子に宛てた書状に添えられた大坂方の軍勢配置(予定)リストである「三口へ之御人数備之覚」の中に、「勢(瀬)田橋東番衆」として「一 千五百人 中川修理(秀成)」が見える。ここからも秀成が大坂方への参加を期待されていたことが確認できよう。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)