九 (天正十三年)一月廿一日 羽柴秀吉朱印状

 中川秀政が湯治見舞として書状及び三種三荷と湯帷子五枚を送ったことに対する秀吉の礼状。彼は天正一三年(一五八五)一月一七日から摂津有馬(現、神戸市北区)に湯治に出かけており、その折りのものと思われる。秀吉は天正一一年には当地を蔵入地(直轄地)とし、それに先立つ同八年八月以降、正妻おねや側室を伴って度々湯治に来ており、文禄三年(一五九四)前後には六五軒の家屋を立ち退かせる大規模な工事を行って湯治用の別荘を建設していることもよく知られている。
 なお文末に委細は平右衛門尉が申すべし、とあるが、この、秀政と秀吉の取次役となった「平右衛門尉」は、天正一二年の小牧・長久手の戦いの際の秀吉軍陣立書(六号文書解題参照)の秀吉本陣後備にその名の見える富田平右衛門尉一白のことか。一白はこの天正一三年から翌年にかけて徳川家康の上洛を促す使者となり、同一五年には関東・奥州の惣無事令の執行奉行となって下向するなど、秀吉の奉行人として活躍した人物である。この年の湯治のおり、茶人の津田宗及が同伴して茶会が催されたことが確認できるが、一白はこれ以前からその津田宗及や織田信忠、さらには秀吉の山崎茶会(天正一〇年一一月七日)に出席したり、また自らも茶会を開くなど、秀吉に近いのみならず茶人としての事績が見える武将であり、これも彼が湯治に帯同していることと関係するかも知れない。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)