九一 (慶長五年)八月一日 黒田孝高書状

 慶長五年(一六〇〇)八月一日付で黒田如水孝高が中川秀成に宛てた書状。冒頭「貴札の如く久しく申し承らず候」とあるので、秀成の書状に対する返答である。孝高は播磨姫路城主小寺職隆の子で、官兵衛・勘解由とも称し、信長・秀吉に仕え、特に秀吉の軍師としてよく知られた人物である。姫路城主に始まって、以後も播磨国内に居城・所領を有したが、天正一四年(一五八六)の秀吉の九州攻めで軍奉行を勤めた功により翌年豊前国のうち六郡を与えられ、同国中津を居城とした。本状を出した時点ではすでに家督を嫡子・長政に譲って隠居の身であったものの、長政が黒田家主力を率いて家康の会津攻めに従っていたため、急遽領内に布告して軍勢を募集、こののち隣国豊後の奪回を図った大友吉統を始め、九州の大坂方(西軍)諸将と戦い、これらを破った。
 孝高は秀成の書状への礼を述べた上で、「隣国の儀に候あいだ、互いに申し合うべく候」と、両者の協調を促す。そして秀成に対し、そちらは一揆の多いところなので、充分注意せよ、と忠告していることが興味深い。ここでいう一揆とは、孝高じしんが以前鎮圧した、肥後や自領豊前に起こったような国人一揆を指すと思われる。秀成が家臣団を率いて豊後に始めて入国した際、大友氏の旧臣がその行列の進行を妨げ、秀成側は、これを武力で鎮圧して八〇余人をその場で討ち取り、生け捕りにした一七人ものちに磔に処す、という事件が起こっている(「中川氏年譜」『中川史料集』所収)。中川氏はこのような大友旧臣である国人たちとの軋轢を残していた。孝高はこの点について忠告したのだろう。なお、本状の出された一ヶ月ほど後の九月九日、豊後の旧主大友吉統が西軍と結んで旧領回復を狙い、兵を率いて速見郡別府浜脇浦(現、別府市)に上陸するという事態が発生するが、牢人となっていた者のみならず、秀成に与力として付属されていた吉統旧臣田原紹忍・宗像掃部までもがそれに与同するに至っている(九五号文書・九六号文書参照)。孝高の危惧は当たったというべきだろうが、先述の通り、この吉統軍の鎮圧の中心となったのは孝高その人であった。
 そしてこれに続けて、孝高は七月二五日に大坂を出た船がもたらした情報として、大坂方の猛攻を受けながらも伏見城は堅固にもちこたえていること、丹後でも細川忠興の父・幽斎の居城田辺城が大坂方の丹波諸将(山家城主谷衛友・福知山城主小野木公郷・亀山城主前田茂勝・園部城主別所吉治など)に攻められているが、これも持ちこたえていること、近江の瀬田に中国衆が城を建造中であること(八九号文書参照)、伊勢と近江の境でも同様に大坂方が城を建設中しており、その大将は大谷刑部吉継であること、などを伝えている。
 なお、孝高が堅固にもちこたえている、と伝えた伏見城は、皮肉なことにこの手紙がしたためられた八月一日に陥落した。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)