九二 (慶長五年)八月十三日 黒田孝高書状

 九一号文書同様、豊前中津城の黒田孝高から中川秀成に宛てられた書状。慶長五年(一六〇〇)八月一三日付。
 孝高は「夜前大坂より申し来」ったとして、家康が「東の儀」、すなわち会津の上杉景勝討伐については「御存分に仰せ付け」、武蔵(正しくは下野)小山(現、栃木県小山市)から(七月)二七日に引き返して上方へ出陣したこと、諸将の西上が二六日に決まったたこと、以上のことは家康の使いとして七日に大坂に着した山代忠久が伝えてきたことを書き記す。またこれに加え、黒田長政は福島正則とともに今日明日には尾張清洲(現、愛知県名古屋市清洲町)に到着するであろう旨申し伝えてきたことも書き添えている。
 諸大名を率いて会津討伐の途上にあった家康は、下野小山に到着した七月二四日、伏見城の留守を守る鳥居元忠が送った使者により、大坂方の挙兵と伏見城攻めを知ることとなった。ここに至って家康は決心し、翌二五日、全軍の諸将を小山に召集し、上方の情勢に関する軍議を催した。世に言う小山の評定である。評定は、家康に味方して石田三成らを討伐することを明快に表明した福島正則らの進言により、彼を筆頭とする豊臣氏恩顧の諸大名たちをも含めて大坂方を討つことで一致した。ついで諸将は以後の戦略を協議、会津方面への備えとして家康の次男結城秀康を主将とする軍勢を配置すること、上方への侵攻軍についてはこれを二手にわけ、福島正則・池田輝政・黒田長政などの豊臣系諸将と家康の率いる軍勢は東海道を、家康の後継者たる秀忠率いる軍は中山道を進み、両者は美濃・近江方面で合流して大坂方と決戦に及ぶことを決定した。そして諸将は翌二六日には小山を出発して江戸に戻り、豊臣系諸将と家康軍先鋒の本多忠勝・井伊直政は八月一日よりあいついで江戸を出発、同一四日までに全軍が福島正則の居城であった清洲城に集結することとなる。本状はこうした家康方、すなわち関ヶ原合戦における東軍の動向を伝えるものである。
 ただし、本状では家康が七月二七日に小山を発し、上方へ出陣とあるが、実際には家康が小山を発ったのは、上杉方への押さえを監督したのちの八月四日で、翌五日に江戸に戻っている。しかも軍議では豊臣系諸将とともに東海道を進軍する筈であった家康は、結局八月終わりまで江戸に踏みとどまって動かなかった。これは、上杉景勝はもとより、景勝と気脈を通じていると見られた常陸の佐竹義宣などの東国大名達の動きを封じておくことに加え、東軍として行動することになった豊臣恩顧大名たちの動向を見極めることに目的であったとされる。家康は未だ彼らを充分に信用していなかったのである。そして豊臣恩顧の武将のうちで家康が最も警戒していたのが、その筆頭格である福島正則であった。先述のように、小山の評定では正則は積極的に家康を支持したかのようであるが、正則は三成らを嫌っていたとはいえ、豊臣家に対する忠誠心は変わらず、むしろ家康の秀頼に対する存意に疑念を持っていた。彼が評定で上のような姿勢を示すに至ったのは、実は家康の意を受けた黒田長政の、ここで家康方についても豊臣家には危害はない旨の説得によると考えられている。そして家康はまた、長政を出陣後の八月四日にわざわざ呼び戻し、作戦を協議するとともに正則に別心がないか念押ししている。家康の正則対策において、長政は重要な位置にあったようである。本状から、長政が正則とともに軍を揃えて東海道を進んでいたことがわかるが、あるいは長政は、家康から正則の動向を見守るよう依頼を受けていたのかもしれない。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)