九三 (慶長五年)八月十八日 中川秀成起請文写

 徳川方(東軍)諸将が尾張清洲城に集結して大坂方(西軍)の織田秀信が守る美濃岐阜城攻めを窺い、関ヶ原合戦に向けた緒戦の火蓋が切られようとしていた慶長五年(一六〇〇)八月一八日付けで、中川秀成が隣国・肥後熊本の加藤清正に宛てた起請文の写。前書(誓約事項を箇条書にした部分)のみで神文(誓約に違反した際罰せられる神仏の名を記す部分)が省略されており、正確には「起請文前書写」である。
 関ヶ原合戦で爆発する豊臣政権内部の矛盾・政治的葛藤において、石田三成ら奉行たちとの対立から、清正が早くに親家康の姿勢を示したことはよく知られるが、秀成も慶長四年、在大坂の大老・奉行衆が秀吉の遺命に反したかどで家康を糾問する事件のあった際には、義兄弟にあたる池田輝政の仲介で家康に無二の忠誠を誓い、翌五年二月にも家康・秀忠親子に忠誠を誓う起請文を輝政と榊原康政あてに出すなど(「中川氏年譜」『中川史料集』所収)、一貫して親家康派の立場をとっていた。
 秀成は、まず第一条では、(豊臣)秀頼様に対し自分は格別に奉公せねばならぬ身であること、続く第二条では、「今度天下不慮の儀」につき、大坂の奉行たちから上坂するよう度々言ってきたが、先々から家康と懇意にしてきたいきさつがあるので、今日までそれに応じていないことを述べる。そして両条ともに清正も同じであろうことを強調しており、ここまでは誓約の内容というより、第三条の前提となる秀成の立場を確認し、清正の同意を求めているといった方がよいかも知れない。
 そして第三条で秀成は、以下のように誓約する。家康に対しては全く裏表も二心も無い。奉行達にも毛利輝元(大坂方の総大将)にも、自らの身の保障を委ねるような書状は一通も送っていない。清正の元へも到来したであろう奉行達からの触状(八六・八七号文書のことか)の返事を出しただけである。家康と前田利長は無事上洛したと聞いた。しかし自分は「母子ならびに女共」が大坂にあって、奉行達から新庄直頼・直定に預けられて苦しんでおり、自分に助けに来るよう度々申し送ってきている。そんな有様なので、こんどばかりは上坂しなければ一族壊滅となりかねない模様である。そこでやむを得ず上洛しようと考えている。これは決して保身のためでも私利を図るものでもない、と。
 すなわち本状は、大坂で人質となっている母や妻子らを救うべく上坂を決意した秀成が、これは決して家康を裏切って大坂方の誘いに応じた訳ではない、ということを誓約するものということになる。大坂方は挙兵直後から、大坂の屋敷にいた妻子を人質に取ることで諸大名を自陣営に引き寄せることを狙い、秀成に対してもそれを匂わせていたが(八七号文書解題参照)、本状から、秀成の母や妻子は大坂方の摂津高槻城主新庄直頼・直定父子のもとで人質となっていたことが明らかになる。これは秀成の正室が直頼の養女であったことと関係すると思われる。親徳川の諸大名にとって、大坂に残された人質の存在が大きな重荷であったことは、会津討伐戦中のいわゆる「小山の評定」で、家康が諸大名に対し、人質を取られていることを理由に進退を各自の自由に任せるとの意向を伝えたとされることにも明らかである。秀成は、この大坂方の人質作戦に屈しつつあるかに見える。
 ただし、秀成が実際に大坂に上ったという事実は確認できない。丹後宮津城主細川家の豊後飛地・木付六万石(現、大分県杵築市)の留守居有吉立行・松井康之が八月二八日に主君忠興に送った書状の中に、秀成はまだ上坂していないが、四五日以前に中川長祐(五号文書(知行配分目録)に見えた秀成重臣の中川平右衛門尉)が上坂したとあるのが(『大分県史 中世編V』)、あるいはこれと関わるかも知れない。なお、文中家康と加賀の前田利長が無事上洛した云々とあるが、本状の出された八月一八日当時、家康はまだ江戸城におり、また前田利長も領国加賀にあって、徳川方として大坂方・山口宗永の大聖寺城(現、石川県加賀市)を攻略するなどしており、上洛の事実はない。日付が付されているだけに、本状の正文は実際に清正にあてて発されたものと思われるが、不可解な要素が残る文書である。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)